武田信玄

戦国時代

長野業正 武田信玄に勝利し、真田幸隆と親交を持った武将の生涯

長野業正なりまさは戦国時代に上野こうずけ(群馬県)において、強勢を誇っていた武将です。 武田信玄の侵攻を防ぐ一方で、真田幸隆《ゆきたか》と親交を持っていた、と言われています。 その精強さから「上州の黄班《おうはん》(虎)」という異名を持...
織田

織田信長が第六天魔王を名のったワケ

織田信長は自ら「第六天魔王だいろくてんまおう」と名のったとされており、このために「魔王」と称されることがしばしばあります。 【魔王を名のったと言われる織田信長】 これは信長が1573年に、甲斐の大名・武田信玄から挑戦状を受け取り、そ...
戦国時代

真田昌幸、兵に酒を飲ませて北条の軍勢を討ち破る – 薩埵峠の戦いより

真田昌幸まさゆきは知略に優れた戦国大名として知られていますが、元々は武田信玄に仕えていた武将でした。 その時代にも鮮やかな策によって、北条氏の軍勢を討ち破る功績を立てたことがあります。 この文章ではその戦いの際の、昌幸の活躍ぶりを紹介し...
戦国時代

武田信玄はどうして三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝できたのか?

1572年、京への上洛を目指す武田信玄は、遠江(静岡県西部)の三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康と織田信長の連合軍と戦い、これに圧勝しました。 これによって信玄は東海方面での優位を確定させ、家康と信長を強く圧迫し、窮地に陥れています。 ...
戦国時代

武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について

武田信玄は甲斐(山梨県)を拠点として周辺の諸国に勢力を伸ばし、一大強国を作り上げた戦国大名です。 軍事や調略、内政や家臣団の統率にも優れており、武田氏を戦国最強と呼ばれる軍団に育て上げました。 上杉謙信と川中島で何度も戦火を交えたことで...
戦国時代

今川氏真 父・義元の死後に全てを失うも、しぶとく生き延びた武家貴族の生涯について

今川氏真(うじざね)は「海道一の弓取り」と言われた東海道の大名・今川義元の嫡子です。 父が織田信長に討たれた後、9年ですべてを失って大名としての今川氏を滅ぼしてしまいました。 その後はかつて父の家臣だった徳川家康の元で生きのび、子どもや...
戦国時代

上杉謙信(長尾景虎) 軍神と呼ばれ、信義に生きた武人の生涯について

上杉謙信は毎年のように各地に出兵し、その生涯の多くを戦場で過ごした生粋の武人です。 後世から「軍神」と呼ばれるほど優れた武将でしたが、その行動原理は他の戦国武将たちと異なっており、際立った個性の持ち主でもありました。 領土欲が乏しく、信...
戦国時代

川中島の戦い 武田信玄と上杉謙信、宿敵同士の決戦について

1561年、武田信玄は北信濃の川中島で四度目の対峙を迎え、この時にはじめて上杉謙信と決戦を行いました。 両者は長年に渡って抗争を続けており、宿敵と呼べる間柄でした。 この文章では、そんな両者の最初で最後となった、正面きっての大規模な対戦...
織田

長篠の戦いで織田信長が武田勝頼に圧勝できたワケ

織田信長は1575年に、長篠で武田勝頼と戦って大勝利を収めました。 それまで武田軍は信長と、同盟者の徳川家康の前に強敵として立ちふさがっていましたが、この一戦によって優れた将兵を数多く失い、衰退の道をたどることになります。 この文章では...
戦国時代

武田勝頼は無能か有能か?

武田勝頼は武田氏を滅ぼした無能な武将である。 当人は有能だったが父・信玄の残した負債に押しつぶされてしまった不運な武将である。 そのように勝頼の評価は割れがちになっています。 実際のところ、勝頼はどのような武将だったのでしょうか。 ...