朝倉氏の撤退と、遠江での越冬
こうして信玄は大勝を収め、東海方面における優位を確定させました。
次はいよいよ信長の領地に乗り込む段階に来たのですが、この時になって朝倉義景が北近江から撤退してしまいます。
これによって信長は北近江に軍勢を貼り付ける必要がなくなり、美濃に撤退して信玄の侵攻に備える構えを取りました。
信玄は「ここで撤退してしまっては、労ばかりを得て功を得られなくなる」という内容の書状を義景に送り、再度出陣するようにと促しましたが、義景は動きませんでした。
この頃に朝倉氏は、信長との戦いによって消耗しきっており、家臣の中から信長への内通者が出るなどして、崩壊の危機にさらされていました。
このため、信玄が「あと一歩で信長を滅ぼせるのだから」と促しても、動くに動けなかったのです。
この影響と、信玄自身の体調の悪化もあって、行軍を一時停止し、信玄は遠江で越冬します。
野田城の攻略と喀血
信玄は翌1573年の1月になると、三河への進軍を再開しました。
そして徳川方の野田城への攻撃を開始します。
野田城は500程度の兵が篭もるだけの小さな城でしたが、周囲を河川に囲まれた丘の上にあったため、その防御力はなかなかのものでした。
しかし武田軍は3万の大軍でしたので、力攻めをすればすぐに攻め落とせたでしょう。
しかしこの時に信玄は、攻略に長い時間をかけました。
甲斐から金堀衆を呼び寄せて地下道を掘らせ、水源を断ち切ることで抵抗をあきらめさせています。
この戦いには1ヶ月を要し、2月16日になってようやく城主が降伏しています。
これが信玄にとって、生涯で最後の戦いになりました。
落城の直後に信玄は再び喀血し、病状が悪化したことから、奥三河にある長篠城に入って療養することになります。
武田軍の撤退と、信玄の死
しばらく療養生活を送ったものの、信玄の病状は一向に回復せず、一門衆や重臣たちが協議した結果、4月には甲斐に撤退することになりました。
信玄はこの途上、三河を移動中に死去しています。
享年は52でした。
あと5年ほども信玄の寿命が長ければ、信長と家康の、つまり日本の歴史の行く末は、ずいぶんと変わったものになっていたかもしれません。
信玄の遺言
信玄は遺言で、自分の死を3年は秘匿するようにと言い残します。
そして四男の勝頼を後継者とし、武田氏を継がせました。
しかしこれは勝頼の子・信勝が継承するまでのつなぎでしかないと定められており、勝頼の立場は弱いものでした。
勝頼は諏訪氏を長く名のっており、武田氏の嫡流であるとは見られていませんでした。
このため、信玄は勝頼に全権を譲り渡すことが難しかったのです。
嫡男の義信との争いが、このような形で武田氏を祟ることになりました。
信玄は後のことを重臣の山県昌景、内藤昌豊、馬場信春らに託しますが、彼らは勝頼に信頼されず、信玄の代に固い結束を誇っていた武田氏の家臣団は、ばらばらになっていきます。
信玄の最後の命令は山県昌景に対し、「明日は瀬田に武田の旗を立てよ」というものでした。
瀬田は京都の地名で、いずれは武田軍を京都に乗り込ませ、天下を手中に収めよ、と言いたかったのだと思われます。
しかし実際には、武田軍が京都まで到達することはありませんでした。
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