豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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山崎の戦い

秀吉軍が大坂から京都に向かうにあたり、必ず通らなければならないのが山崎の地でした。

山崎は道が狭く、大軍を展開しづらい地形で、戦力で劣る光秀は、ここを塞いで秀吉の進軍を食い止めようとします。

このため、両軍は山崎の地で激突することになりました。

秀吉は3万の軍勢を集めていたのに対し、光秀は1万2千程度だったと言われています。

6月13日に両軍は山崎付近に軍を展開し、決戦が行われる気配となります。

秀吉は現地の地理に明るい中川清秀や高山右近に天王山を占拠させ、配下の中で最も優れた指揮官である黒田官兵衛もここに配置します。

この天王山が前線となり、やがて秀吉の軍勢は明智軍と接触し始め、午後4時ごろから本格的に戦いが開始されました。

天王山付近では中川清秀隊が奮戦して戦況を優位に展開し、じわじわと明智軍を押し込んでいきます。

これを見た秀吉は全軍に総攻撃を命じ、数で勝る秀吉軍は、明智軍を圧倒してこれを撃破します。

戦況の不利を悟った光秀は直ちに軍を引かせ、近くにある勝龍寺城に撤退します。

しかし勝龍寺城は大軍の攻撃を防げるような大規模な城塞ではなかったため、近江の坂本城を目指してさらに撤退することになります。

敗戦によって兵士たちが逃亡してしまい、光秀の手元にはほとんど残っていませんでした。

このため、わずかな供を連れて逃亡することになります。

しかし、京都の間道を抜けようとした際に、落ち武者狩りをしていた土民に襲撃され、竹槍で突かれた傷が元で光秀は死亡しました。

こうして秀吉はわずか11日間の、電光石火の作戦で信長の仇討ちに成功し、一躍天下人を目指せる地点にまで到達しました。

この頃には柴田勝家や徳川家康なども光秀を討つべく準備を進めていましたが、秀吉は素早い討伐の成功によって、彼らの介入を許しませんでした。

このことが秀吉の立場を強める結果をもたらします。

光秀はさながら、秀吉の立身出世を助けるために信長を殺害したようなかっこうになってしまいました。

このため、秀吉こそが信長殺害の黒幕だという説がありますが、さしたる根拠はなく、信憑性は低いです。

毛利氏の追撃や宇喜多氏の寝返りを受けなかったのはただの幸運に過ぎず、一歩間違えば自分も戦死する危険な状況で、信長への謀反など実行するはずがないからです。

清州会議

光秀討伐後の6月27日に、かつての信長の本拠であった尾張の清州城に、織田氏の一族や重臣たちが集合します。

そして信長の後継者や遺領の分割を決めるための会議が開かれました。

本来、信長の後継者にはずだった嫡男の信忠は、本能寺で信長が討たれた直後に光秀に二条城を包囲されて自害しています。

このため、信長の後継者の地位が空白となっていました。

秀吉は信長の四男の秀勝を養子としていたため、周囲からはこの子を後継者に推すのではないかと見られていました。

しかし実際に秀吉が推薦したのは信忠の子で、まだ2才の幼児である三法師でした。

三法師は信長の嫡孫に当たるため、血統的には問題はありませんでしたが、まだ幼すぎるため、織田家の家臣筆頭の立場にあった柴田勝家がこれに反発し、信長の三男である信孝を推薦します。

しかし丹羽長秀や池田恒興など、秀吉と共に光秀を討伐した重臣たちが秀吉の意見に賛成したため、これに押し切られる形で三法師が信長の後継者と決まりました。

これにより、秀吉は織田家の嫡流を無力化したことになります。

丹羽長秀らがこれに賛同していることから、信長も信忠もいなくなった織田家は、もはや天下人である資格を失ったと、多く家臣たちに思われていたことになります。

このあたりの人の心の変転こそが、戦乱の時代の恐ろしいところだとも言えるでしょう。

彼らは秀吉を押し立てて天下人に据え、自身の栄達も図ることを考えるようになっていました。

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