明智光秀の妻は、姓名を妻木煕子と言います。
生年は不明ですが、1530年ごろではないかと推測されています。
妻木氏は美濃(岐阜県)の土豪で、現在の土岐市妻木に山城を構えていました。
これは409メートルの山上に築かれたもので、現在でも石垣や曲輪、土塁が残っており、県の史跡に指定されています。
煕子の父はこの妻木氏の当主・範煕です。
細川氏の家史である『綿考輯録』に、「細川忠興の正室であるガラシャ(光秀の三女)の母は、妻木範煕の娘である」と記録されていることが、その根拠になっています。
光秀との結婚
煕子はやがて、同じく美濃の豪族の一員である、明智光秀と結婚します。
光秀の出身については諸説あるのですが、妻木家の娘と結婚したことが、美濃の豪族出身だとする説を補強していると考えられます。
豪族は婚姻によって近隣の豪族との関係を深め、互いの利益を守るのが、当時はあたりまえに行われていることだったからです。
なお明智氏と妻木氏は、元は同族だったという説があります。
【煕子の夫・明智光秀】
疱瘡の跡があったという逸話
結婚する前に、煕子は疱瘡にかかって顔に跡が残ってしまった、という話があります。
このため、結婚が危ぶまれたのですが、光秀は意に介さず、煕子を妻に迎えたと言われています。
流浪の生活から越前へ
こうして煕子の結婚生活が始まりましたが、やがて明智氏は領地を失い、光秀は流浪することになります。
これは1556年に美濃で行われた、領主である斎藤道三と、その子の義龍の争いが原因だとされています。
明智氏は道三と縁戚関係にあったため、道三に味方しました。
しかし道三が義龍に敗れて戦死し、明智氏は居城を攻め落とされ、勢力を失います。
この時に一族の多くが戦死しましたが、生き残った光秀は流浪することになりました。
そして煕子もまた、故郷を離れることになります。
越前で仕官する
流浪時代の光秀の動向は不明ですが、やがて越前(福井県)の大名・朝倉氏に仕官します。
しかし収入が乏しく、連歌の会の費用の捻出ができない光秀を見かね、煕子は自分の髪を売ってそれを工面した、という逸話があります。
これが史実かは不明ですが、この話を元にして、松尾芭蕉が「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」という句を読んでいます。
これは芭蕉が旅の途中、貧しい境遇にあるにも関わらず、暖かいもてなしをしてくれた夫婦に贈った句です。
先の逸話とあわせて、光秀と煕子の夫婦仲が良好だったのは事実なのでしょう。
光秀が出世する
その後、将軍位を争う足利義昭が越前に避難してくると、光秀はこれが世に出るきっかけになると考えたようで、義昭に仕官します。
そして織田信長との交渉が始まると、それに関与し、やがて信長にも仕えるようになりました。
元々が美濃の出身であり、信長の岳父である道三とも縁戚関係にあったことが、寄与したのかもしれません。
信長が京都への上洛を果たし、義昭を将軍に就任させると、光秀は両者の間を取りもつ役割を担うようになります。
さらに光秀は京都で行政手腕を発揮し、軍事でも活躍したことから、信長に重用されるようになりました。
こうして光秀は時流に乗り、一躍表舞台に登場することになったのでした。
父が光秀の補佐をする
やがて光秀は信長に抜擢されて坂本城主となり、数千の軍を指揮するほどの立場になります。
すると煕子の父・範煕が本領を離れ、光秀を補佐するようになりました。
こうして妻木氏と明智氏の関わりが、さらに深くなっていきます。
二男と四女を生む
煕子は二人の男子と四人の女子を生んだとされています。
(三男もいたという説もあります)
長男は光慶といい、光秀の後継ぎの立場にありました。
次男は名が不明ですが、大和(奈良県)の大名・筒井順慶の養子になったと言われています。
長女は重臣の明智光春に、次女は一族の明智光忠に、三女は細川忠興に、四女は織田信澄(信長の甥)に、それぞれ嫁いでいます。
光秀は信長の重臣として出世頭となり、子どもたちは重臣や有力者たちに嫁ぎ、煕子の置かれていた環境は、流浪の時代から一変しました。
この頃が、最も幸福な時期だったろうと思われます。
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