上杉謙信(長尾景虎) 軍神と呼ばれ、信義に生きた武人の生涯について

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信玄との3度目の対決

信玄は先の戦いで謙信と和睦しましたが、その時の取り決めを破り、3度目の北信濃侵攻を開始しました。

そして謙信に味方する豪族の居城である、葛山城や飯山城などを攻撃します。

謙信は信玄の盟約違反に激怒し、こちらも再び北信濃に軍を率いて乗り込みます。

そして武田方に奪われていた善光寺などを奪還し、さらに信濃中部の武田領内に深く侵攻していきます。

これに対し、謙信の戦場での強さを知っている信玄は、またも直接対決はしようとせず、謙信の後背を脅かす策を取ります。

越後近くに武田軍が出没するようになり、これを受けて謙信は軍を引かざるを得ず、またしても決着がつかないままに両軍は撤退します。

謙信は信玄を嫌っていた

謙信は信玄と長年対戦しており、両者の間には友情めいたものがあったとする説がありますが、実際には異なっていただろうと思います。

謙信は正々堂々とした戦いを好みましたが、信玄はそうではなく、常に直接対決を避け、謀略によって謙信の勢力を弱らせようと画策し続けました。

謙信はこのために信玄を強く嫌っており、信玄の悪行を記した書簡を神社におさめ、天罰がくだることを願っていた、という記録もあります。

信玄のやり方は、謙信に父の為景のことを思い出させることもあったかもしれません。

何度出陣しても自分と直接戦おうとせず、搦手ばかりを駆使してくる狡猾な信玄に、謙信は苛立ちをつのらせて行きました。

それが4度目の対決の際の、謙信の行動に反映されたものと思われます。

再度の上洛

1559年に謙信は再度上洛し、足利義輝に拝謁します。

そして「管領並」という待遇を与えられました。

これは関東管領も同然の立場だ、と認証されたことになり、謙信は関東への介入の意識を強めていくことになります。

関東管領の実力を奪い、関東制覇をもくろんでいる北条氏康との対立が、より強まっていくことを意味していました。

小田原攻め

1560年になると、北条氏康と同盟を結んでいた今川義元が桶狭間で戦死し、北条方の勢力がいくらか弱体化した状態になります。

謙信はこの機をとらえて北条討伐の号令を出し、越後から関東に向けて出兵しました。

そして上野に入ると、厩橋城や沼田城などの北条方の城を次々に攻め落とし、上野を占拠します。

そして厩橋城で越年すると、管領並の立場に立ったことを活用し、関東の諸侯にも北条討伐に参加するようにと呼びかけます。

北条氏から圧迫を受けていた諸侯がこれに応じ、謙信は10万という大軍を組織するに至りました。

そして武蔵(埼玉・東京あたり)に進軍して北条方の諸城を攻略し、鎌倉をも占領します。

ついで北条氏の本拠である小田原城を包囲しますが、包囲が一ヶ月に及ぶと、様々な異変が起き、謙信の攻勢が頓挫することになります。

まず、集結していた佐竹氏などの諸侯の一部が、滞陣が長引くに連れて出兵を維持できなくなり、無断で撤退していってしまいました。

そして北信濃では、武田信玄が謙信が関東に討ち入っている隙をついて、海津城という拠点を構築し、勢力を拡大しはじめていました。

北信濃を占拠されると、そこから越後まで侵攻される可能性もありますので、これを放置しておくわけにも行きません。

そのためにやむを得ず、謙信は小田原城の包囲を解き、越後に撤退します。

北条氏と武田氏は同盟関係にあり、このように連携をして謙信を牽制し、勢力を拡大させていったのです。

謙信はこの両者の巧みな戦略の前に、苦戦を強いられていくことになります。

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