織田信長と足利義昭
この頃には織田信長が美濃(岐阜)を攻略して大きく勢力を伸ばしていました。
そして足利義輝の弟・義昭を迎え、将軍の地位につけるために京都まで攻め上がります。
義昭は信長の援助で将軍位につくことができ、これを聞いた謙信は織田信長に鷹を贈るなどして友好関係を築きます。
この頃の謙信には、信長が室町幕府の勢力を再興させようとする、同志のように見えていたのかもしれません。
この関係から、三河を支配する信長の同盟相手・徳川家康とも友好関係になります。
こうして中央での情勢と、謙信の外交関係にも変化が訪れていきました。
北条氏康が謙信を称える
謙信は越中に軍を率いて攻め込み、椎名康胤の居城を取り囲みますが、信玄が上野に侵攻したため、そちらに軍を向けざるを得なくなります。
その後もまた越中におもむきますが、今度は北条氏康から救援の依頼を受けたため、またも兵を引いて関東に向かいます。
謙信はとても律儀で義理堅い性格であったため、同盟相手に救援を求められたならば、あらゆる苦難をものともせず、必ずこれに応じていました。
こうした謙信のふるまいを見て、北条氏康は「平気で人を裏切る武田信玄や織田信長とは違い、謙信は本当に信用できる人物だ。若い武将たちにも彼の姿勢を見習わせたい」といったことを語ったそうです。
この時代は自分の利益の伸ばすためならいくらでも策略を用い、人を騙すことをためらわない人間で満ちていました。
そんな世の中に謙信のような誠実な人物が存在し、しかも追い落とされることなく強勢を誇る大名の地位を保ったこと自体が、一種の奇跡だったと言えるかもしれません。
それは謙信の指揮能力の高さと、越後兵の強さと、そして財力によっても支えられていました。
謙信の財力
謙信は毎年のように、時には複数回に渡って各地に軍を派兵していましたが、それを支えていたのが当時の越後の豊かさでした。
佐渡の金山による収入があり、そして染料の原料となるカラムシを日本全国に流通させることでも、莫大な収益を得ていました。
越後には直江津という良港があり、ここで交易が盛んに行われていたのです。
謙信は生涯で70度に渡る戦闘を行いましたが、それでもなお上杉氏の財政は豊かで、多額の資金を残すゆとりがありました。
こうした越後の財政事情が、謙信の軍事活動を支える基盤になっていたのです。
養子を迎え、謙信を名のる
1570年に、子どものいない謙信は、北条氏康の七男・三郎を養子に迎え、これにかつての自身の名である「景虎」を与えました。
謙信はこの養子を気に入っていたようで、一族衆に加えて好待遇を与えています。
この頃には北条氏康との関係がかなり良好になっていた、というのも背景にあるのでしょう。
この年の12月には「不識庵謙信」という法号を名のるようになり、後世にまでよく知られる「上杉謙信」の名が誕生しました。
謙信も40を超えており、この時代ではそろそろ引退を意識する年齢になっています。
そのこともあって、法号を名のるようになったのかもしれません。
北条氏康の死と、越中の攻略
1571年には同盟関係にあった北条氏康が死去します。
その後を継いだ北条氏政は、翌年までに武田信玄との関係の修復を図り、謙信との同盟を破棄しました。
武田信玄はこの頃、織田信長と徳川家康打倒のため、西進することを志していました。
そのため、東に接する北条氏との関係を改善しておきたかった、という事情があったのです。
一方で北条氏政は、関東制覇の野心を抱き、謙信の関東管領の地位を認めるのを、やめたくなっていたのです。
こうして再び北条・武田同盟が結成され、謙信と敵対することになります。
信玄は西進中に謙信に背後を突かれないよう、越中の一向一揆をたきつけ、反乱を起こさせます。
これを受けて謙信は、越中に再び進軍せざるを得なくなります。
この越中の一向一揆には数年に渡って手こずらされましたが、ついに大規模な決戦を行う日が来ました。
謙信は越中の主城である富山城を攻め、その付近の尻垂坂で野外決戦を行い、数で上回る一揆勢に、4千という死傷者が出るほどの大打撃を与えて圧勝します。
これによって越中の情勢は謙信の有利に傾きました。
謙信はなんど討伐しても反乱を繰り返す越中の一向一揆に耐えかね、ついにこの地を自身の直轄領に組み込むことを決意します。
これは謙信にとっては初めての本格的な領土の拡張でした。
それまではなるべく現地の領主を自分の配下に組み込み、支配下に置く方法を取っていたのですが、越中の騒動はあまりに長引いたため、我慢の限界が来たようです。
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