北条氏康はどうして河越夜戦で上杉憲政や足利晴氏の大軍に勝利できたのか?

スポンサーリンク

綱成の出撃

氏康の奇襲が成功したのを受け、河越城内の北条綱成もまた、城から打って出て足利晴氏の部隊に強襲をしかけます。

この時に綱成は、兵士たちに「勝った、勝った!」と叫ばせながら突撃をさせました。

ただでさえ上杉軍が崩れ立って動揺していたところに、北条軍が大声で勝ちを宣言しながら攻撃をしてきたことから、足利軍もまた連鎖的に崩壊します。

こして晴氏もまた綱成の軍に蹴散らされ、敗走しました。

こうして両上杉軍と足利軍はいずれも北条軍に敗れ去り、この結果、1万5千という多大な死傷者を出すに至ります。

こうして後に「河越夜戦」と呼ばれる戦いは、氏康と綱成率いる北条軍の、鮮やかな逆転勝利に終わりました。

戦後の上杉氏

当主の上杉朝定が討ち取られた扇谷上杉氏ですが、朝定には子どもがいなかったことから、この敗戦によって断絶し、滅亡しています。

山内上杉氏の憲政は、本拠である上野(群馬県)の平井城への撤退には成功するものの、この戦いで負った痛手は大きく、急速に勢力を衰退させていきます。

憲政は北関東への攻勢を強めた氏康に対抗するため、信濃(長野県)の諸勢力と同盟を結んで状況を挽回しようとしますが、この結果、信濃への侵攻を開始していた武田信玄と敵対することになってしまいます。

やがて憲政は信玄との戦いに大敗して勢力をさらに弱らせると、氏康によって平井城を攻め落とされ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びていくことになります。

これが後に、謙信の関東への介入を招くことにもつながっていきました。

こうして、長らく関東管領として勢力を保ってきた上杉氏は、河越夜戦を契機として大きく衰退しています。

古河公方の傀儡化

氏康は1554年ごろに下総(茨城県南部)への攻勢を強め、やがて足利晴氏の本拠である古河御所を包囲します。

そして晴氏が降伏した後、隠居させて幽閉し、妹が晴氏との間に生んだ足利義氏を、新たに古河公方に就任させます。

これにより、古河公方は関東の支配者から、北条氏に操られる存在に変わりました。

こうして氏康は関東を長らく支配してきた古河公方の権威を手に入れ、勢力をさらに伸ばしていくことになります。

このように、河越夜戦は単に少数の軍が大軍を討ち破ったというだけでなく、関東の勢力図を大きく塗り替える、重要な転機になった戦いだと言えます。

北条氏が進めてきた関東における下克上が、この戦いをもって完成した、と見ることもできるでしょう。

氏康はどうして勝利できたのか?

10倍の敵を討ち破ったことにより、氏康は戦国時代でも有数の名将のひとりに数えられています。

氏康の奇襲作戦の立案に見る作戦能力の高さと、10倍の敵にもひるまなかった勇敢さにその勝因が求められるでしょう。

また、今川義元との戦いには手こずりましたが、これによって河越城に救援におもむくまでの期間が長引き、結果として敵軍の士気が緩んだことも、氏康の勝利に大きな影響を与えました。

このあたりは怪我の功名、といったところでしょう。

そして河越城を守備した綱成もまた優れた武将であり、彼が半年に渡って大軍の包囲に耐えたことが、氏康に勝機をもたらしました。

綱成は氏康の奇襲と連携して果敢に足利晴氏の軍勢を討ち破っており、2人の呼吸がぴったりとあったことが、大きな効果を発揮しました。

河越夜戦の勝利は、氏康と綱成という2人の優れた武将の力が、うまく合わさったことによって得られたものだと言えます。