呂布が介入する
袁術が徐州に攻め込むと、劉備がそれを迎え撃ち、一進一退の攻防となりました。
そうして戦いが続くうちに、やがて曹操に敗れた呂布が徐州に流れてきます。
劉備は呂布を受け入れますが、やがてこれが仇となりました。
袁術は呂布に使者を送り、兵糧を提供するから劉備を背後から攻撃してくれ、と持ちかけます。
そうした状況下で、やがて劉備が徐州の守備に残していた張飛が、下邳の守将・曹豹と仲違いをし、もめごとを引き起こしました。
このため、曹豹は劉備を裏切って呂布に通じ、下邳に呂布を引き入れて占拠してしまいます。
こうして本拠を失った劉備は撤退しましたが、裏切られた呂布と和解し、勢力は大幅に減少したものの、徐州にとどまり続けました。
呂布に和解をもちかけられ、劉備を討てず
袁術は弱体化した劉備を滅ぼそうと、将軍の紀霊に、劉備が新たな拠点とした小沛を攻撃するように命じます。
すると今度は呂布が介入し、劉備と紀霊に和解をするようにと持ちかけました。
呂布は完全に袁術の味方になったわけではなく、劉備のことを気に入っていたため、その命を救おうとしたのでした。
また、劉備がいなくなると、袁術が今度は自分を攻撃して徐州を奪おうとしてくるだろうと、警戒していたのだと思われます。
このために、劉備は危機を逃れることができたのでした。
袁術は信用がなかったために味方が増えず、劉備は人望があったがゆえに、危機に陥ってもそのたびに誰かに救われるのでした。
孫策の反抗
こうして徐州の侵攻は滞っていましたが、一方で孫策は揚州各地の攻略を進め、呉郡や会稽で有利に戦いを展開していきます。
そして順次それらの地の支配者を討ち破り、勢力を拡大していきました。
やがて孫策は丹陽という土地を得ますが、すると袁術が、一族の袁胤を太守に任命しようとします。
しかし孫策は従兄弟の徐琨を太守とし、袁胤を追い出してしまいました。
これは以前、廬江の太守にするという約束を反故にされたことに対する意趣返しであり、袁術の命令を拒絶できるほどに、孫策の実力が高まっていたことがうかがえます。
孫策はまだ完全に独立こそはしなかったものの、揚州もまた、袁術の意のままにはならなくなっていったのでした。
献帝が消息不明となる
こうして徐州攻略も揚州統一もうまくいかず、行き詰まりかけていた頃、195年に献帝が長安を脱出したという知らせが届きます。
朝廷を制した李確は、政治のことがまるでわからない人間で、彼の暴虐によって長安の周辺からは人が絶え、数十万戸あった家に住む者が、ほとんどいなくなるほどの惨状を呈しました。
このために献帝は長安を抜け出し、洛陽に戻ろうとしたのです。
しかし献帝の一行は曹陽という場所で李確に追撃を受けて大敗し、しばし消息がわからなくなりました。
皇帝即位を望む
袁術はこの機に皇帝に即位したいという野心をあらわにし、家臣たちに次のように問います。
「現在、劉氏は衰弱し、四海のうちは沸き立つような騒動になっている。わしの家は4代続いて三公の地位に昇り、人望が寄せられている。天命に応え、人々の期待に添いたいと思うがどうだろうか?」
すると家臣の閻象が進み出て、袁術に答えます。
「昔、周は天下の三分の二を支配しながらも、なお殷に臣下として仕えました。殿の家は代々繁栄しておられますが、周の隆盛には及びません。そして漢の王室は衰えたりといえども、まだ殷の紂王の暴虐には至っていません」
閻象はこのように述べ、袁術が皇帝になるには実力が不足しており、時期が早すぎると諫めました。
このため袁術はいったんは話を取り下げますが、押し黙ったままで、不機嫌な様子だったということです。
この時の袁術は14ある州のうち、まだ1州も完全に我が物にはしておらず、天下の主である皇帝を名のろうとするのは、いかにも無謀でした。
また、袁術個人には人望がなく、人が集まってくるのは、ただ名門の出身であるがゆえでした。
にも関わらず皇帝を名のったところで、認める者も従う者も、出てくるはずがありません。
そして袁術は曹操のように、並みいる強敵を次々と撃ち倒して覇道を進んでいけるほどの精強さも備えておらず、皇帝を名のろうとしたのは、まったくもっておこがましい考えだったと言えるでしょう。
しかし袁術は現実をありのままに見ることができない人間で、皇帝になることをあきらめはしませんでした。
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