戦国時代 島津家久はどうして沖田畷の戦いで龍造寺隆信に勝利できたのか? 1584年、「肥前の熊」と呼ばれた龍造寺隆信は、3万の大軍を率いて九州の島原半島に攻め込みました。これは島原を支配していた有馬晴信が隆信を裏切ったため、彼を討伐するのが目的でした。このために有馬晴信は外交関係を構築していた島津義久に救援を求... 2017.05.08 2020.08.05 島津戦国時代
戦国時代 島津義弘と豊久の、関ヶ原からの撤退戦(島津の退き口)について 島津義弘と豊久は、天下分け目の決戦となった「関ヶ原の戦い」に、1500の兵を率いて参戦しました。そして西軍に属するものの、石田三成との確執から戦場ではほとんど戦っていません。西軍が大敗する形で決着がついてからようやく動き出し、数万の敵軍がひ... 2017.04.27 2018.11.09 島津戦国時代