於大の方は徳川家康の母親です。
家康を生んでまもなく離縁され、他の豪族と再婚させられるなど、政略に翻弄された生涯を送った女性です。
その他にも、実家が信長に滅亡させられたり、家族を殺害されるなど、様々な苦難を経験してもいます。
天下人の母親でしたが、その生涯は決して安楽なものではありませんでした。
この文章では、そんな於大の方について書いています。
【於大の方(伝通院)の肖像画】
知多で生まれる
於大の方は1528年に、尾張の知多郡で生まれました。
父はこの地に勢力を持つ豪族の水野忠政で、母は於富の方です。
水野氏は東に松平氏、西に織田氏と隣接する場所に所領を持っていました。
さほど大きな勢力ではなく、政略結婚を用いて周囲の勢力と良好な関係を築くことを、乱世を生き延びるための方策にしています。
このため於大の方も、母の於富の方も、それに翻弄されることになりました。
母が松平清康に嫁がされる
1530年ごろ、三河においては松平清康(家康の祖父)が急激に勢力を伸ばしていました。
そしてある日、清康は水野忠政と戦って勝利すると、於富の方を自分の妻にしたいとに言ってきます。
すると忠政はこれに応じ、於富の方を離縁して清康と結婚させました。
このため、於大の方は幼くして、母と別れることになっています。
このことから、水野氏は立場の弱い豪族だったことがうかがえます。
母はその後も各地に嫁がされる
その後、清康は家臣に殺害され、若くして亡くなりました。
そして於富の方は忠政のもとに戻ることはなく、三河の豪族に次々と嫁がされていますが、いずれも夫に先立たれています。
於富の方は出身が不明なのですが、ある程度は勢力のある豪族の出身で、それゆえに政略結婚の道具にされてしまったのでしょう。
このように、当時の中小規模の豪族の娘の身分は不安定で、そして過酷な環境に置かれていたことがうかがえます。
これはやがて、於大の方をみまう運命でもありました。
於大の方は松平広忠に嫁ぐ
1541年になると、14才になった於大の方は、松平清康の息子である、広忠に嫁ぐことになりました。
これによって、水野氏は松平氏との関係の強化を図ったのです。
広忠は、於富の方とは別の女性(青木氏の娘)と、清康の間に生まれた子でした。
ですので結婚に問題はありませんでしたが、於大の方と広忠は義理の兄妹でもありましたので、だいぶ複雑な関係性になっています。
家康を出産する
1543年に於大の方は男子を出産し、竹千代と名づけられました。
この子が後の徳川家康です。
於大の方は出産後、仏像を奉納して我が子の長生を祈りました。
しかしこの親子は、すぐに引き離されてしまうことになります。
実家に戻される
松平氏は、清康の時代は強勢を誇っていたのですが、彼は若いうちに殺害されてしまいました。
そして後継ぎの広忠が幼かったので弱体化し、今川氏の支配下に置かれるようになります。
水野氏はそんな松平氏と婚姻関係を結んでいたのですが、やがて外交政策が変化していきました。
そのきっかけは、尾張で織田信秀が勢力を伸ばしてきたことにあります。
信秀は信長の父で、こちらも優れた器量の持ち主でした。
信秀は三河への進出を図って東進していましたが、このため、水野氏は織田氏との関係にも配慮しなければならなくなります。
このころ、水野氏は忠政から、於大の方の兄である信元に代替わりしています。
信元は情勢の変化を受け、於大の方を広忠と離縁させ、実家に戻すことにしました。
そして松平氏よりも、織田氏との関係を重視するようになります。
こうして於大の方は自らの意志とはなんら関わりなく、わずか1才の我が子と別れさせられることになってしまったのでした。
家康が織田氏の人質になる
1545年になると、織田信秀による三河侵攻が本格化します。
このため、広忠は駿河の今川氏に支援を求めましたが、そのかわりに竹千代を人質として送ることを求められました。
広忠はこれに応じましたが、護送役の戸田康光が裏切り、このために竹千代は敵対する織田信秀の元に送られてしまいます。
このため、竹千代はしばし織田氏に、人質として抑留された状態になってしまいました。
子も母と同じく、政略の道具にされていたのです。
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