三河一向一揆 家臣団が分裂した家康三大危機の一つ

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三河の一向一揆いっこういっきは、徳川家康が三河を掌握しようとした過程で発生した、大規模な宗教組織による反乱です。

この際に家康の家臣団が分裂し、一揆側に加担する者が続出したため、家康は思わぬ苦戦をしいられました。

これは1563年から翌年まで続くほどの戦いになり、若き日の家康にとって最大の試練となっています。

この文章では、そんな三河一向一揆について書いています。

三河一向一揆

【三河一向一揆を描いた絵】

家康が三河の支配を進める

家康はかつて、今川義元の支配下に置かれていました。

しかし義元は1560年に、桶狭間の戦いで戦死します。

これによって、家康はそのくびきから解放され、独立した戦国大名としての道を歩みはじめました。

そして今川氏に味方する三河の武士たちを討伐し、織田信長と同盟を結ぶことで、その地位は着々と強化されていきます。

そして1563年になると、家康は一向宗の支配地をも、自分のものにしようと考えるようになりました。

このことが、思わぬ大きな騒動を引き起こすことになります。

一向宗と不入の権

一向宗は親鸞しんらんを教祖とする宗教で、浄土真宗ともいいます。

「なむあみだぶつ」と唱えれば、それだけで成仏できるというわかりやすい教えが受け入れられ、庶民から武士まで、幅広い階層が信仰していました。

そして三河における一向宗には、家康の父・松平広忠によって、『不入ふにゅうの権』という特権が与えられます。

これは統治権を持つ武士が一向宗の勢力圏に踏み込んで警察権を行使せず、自治を認めて徴税も行わないことを意味しています。

つまりは事実上、一向宗は寺の周囲の土地の支配者となったのです。

そのような特権が与えられたことからも、三河において一向宗が深く浸透していたことがうかがえます。

これは家康からすると、その土地から税金が得られず、支配権も及びませんので、大きな負の要因になります。

このため、三河の統一を目指す家康は、不入の権を取り上げることを企図するようになったのです。

一揆の発端

実は三河の一向一揆は、当時の資料がほとんど残っておらず、不明な点も多くなっています。

このため、一揆の発端となった出来事が二つあったとされており、どちらが本当なのかは定かではありません。

一つめは、本證寺ほんしょうじという一向宗の寺院に、犯罪者が逃げ込んだことがきっかけだというものです。

これを西尾城主の酒井正親が追跡して捕縛したのですが、不入の権ではこれは認められていません。

にも関わらず家康の家臣がそれを破ったので、一向宗が反発して一揆が勃発した、ということになっています。

二つめは、家康が家臣の菅沼定顕さだあきに命じ、こちらも一向宗の寺院である上宮寺の近くに砦を築かせ、兵糧を奪わせた、というものです。

こちらの方が、より家康が一向宗の権益を剥奪しようとしていたことがあらわですが、菅沼定顕という人物は実在していたのかどうかが判明しておらず、信憑性が乏しい説となっています。

いずれにしても、このころに家康の家臣が不入の権を犯し、家康がそれを謝罪しなかったことで、一向宗の反発が強まり、一揆が発生したという経緯であるようです。

三つの寺が連合して一揆を起こす

一揆の中心になったのは、本證寺の住職である空誓くうせいでした。

彼は一向宗を興隆させた蓮如れんにょの孫にあたります。

空誓は同じく一向宗である上宮寺と勝鬘しょうまん寺に賛同を求め、門徒を集めて菅沼氏が守る砦を襲撃しました。

これをきっかけとして、家康の家臣たちの中で、一向宗を信仰していた者たちが謀反を起こします。

このために三河を二つに割るほどの、大規模な闘争へと発展していったのでした。

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