三河一向一揆 家臣団が分裂した家康三大危機の一つ

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上和田の戦い

この一向一揆において重要な戦いになったのが、1564年1月に発生した『上和田うえわだの戦い』です。

この時は一揆側が攻勢に出て、大久保氏が守る上和田砦を攻撃してきたのでした。

そして守将の大久保忠世ただよらが負傷し、砦が陥落寸前にまで追い込まれます。

このため、家康は本拠である岡崎城を出撃し、救援に駆けつけました。

しかし一揆勢の勢いが強く、家康自身も危機に見まわれます。

やがて銃弾が家康に二発も命中しましたが、鎧の硬い部分にあたったので貫通せず、負傷することはありませんでした。

これほど危うい状況でしたが、するとそれを見ていた土屋重治という、元は家康の家臣だった者が激しく動揺しました。

彼は一揆勢に加わっていたのですが、「私には主君の危機を見過ごすことはできない! このことで地獄に落ちようともかまわない!」と叫びます。

そして一揆勢に武器を向けて戦い始めました。

やがて土屋は弓矢を受けて倒されますが、この間に家康は体制を立て直し、危機から逃れることができました。

戦いが終わると、家康はその死を惜しみ、家臣に命じて土屋の遺体を探させます。

そして戦場の跡地に墓を作り、手厚く葬らせました。

このようにして、いざ家康を目の前にすると動揺し、一揆を裏切ったり逃げ出す武士も多く、彼らが信仰と忠義の板挟みにあって苦しんでいたことがうかがえます。

岡崎城の近くで大勝を収める

一揆勢の攻勢を退け、戦いが一段落すると、今度は大久保隊が勝鬘寺に逆襲をしかけました。

この戦いには家康も自ら加わっていましたが、苦戦をしいられます。

このため、家康はいったん満性寺に撤退し、軍勢の立て直しをはかることにしました。

すると一揆勢が再び動き、家康が不在の岡崎城を攻め落とそうとします。

このように、目まぐるしく攻防が入れ替わりますが、これが家康が勝利を収めるきっかけになりました。

岡崎城の付近で戦闘になったと聞くと、家康は伯父の水野信元の援軍を受け、一揆勢の背後に回り込みます。

そして挟み撃ちにして激しい攻撃をしかけ、多くの一揆勢を討ち取りました。

こうして激戦を制したことにより、戦況は家康の方に傾いていきます。

家康はついで、夏目吉信が守っていた城を攻め落とし、ほぼ勝利を確定させました。

和睦する

こうして一揆側は勢力が衰えると、2月に家康に和睦を提案しました。

一揆への参加者を許すこと、不入の権を再度認めること、一揆の中心にいた本多正信を助命すること、などがその条件として提示されます。

一揆側に都合のよい条件ばかりでしたが、家康はひとまずこれを受け入れることにしました。

この結果、多くの者たちが家康のもとに帰ってきます。

しかし全員が戻ったわけではなく、本多正信や酒井忠尚などは三河を出奔しました。

渡辺守綱は帰参し、後に姉川や三方ヶ原、長篠、小牧・長久手といった主な戦いにすべて参戦し、先鋒として活躍しています。

夏目吉信は帰参した後、三方ヶ原の戦いの際に、家康が大敗を喫すると、その身を守るために家康を名のって武田軍に突撃をかけ、身代わりとなって戦死しました。

このようにして、許した者たちはそれを恩に感じ、家康に尽くすようになっています。

家康が寛大にふるまったのは、正しい選択だったと言えるでしょう。

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