武田信玄は甲斐(山梨県)を拠点として周辺の諸国に勢力を伸ばし、一大強国を作り上げた戦国大名です。
軍事や調略、内政や家臣団の統率にも優れており、武田氏を戦国最強と呼ばれる軍団に育て上げました。
上杉謙信と川中島で何度も戦火を交えたことでも知られています。
やがて信玄は徳川家康や織田信長を脅かし、上洛して天下を制することを目指すようになりますが、病のために寿命が尽き、その野心を達成することはできませんでした。
この文章では、そんな信玄の生涯について書いてみます。
【武田信玄の肖像画】
武田信虎の子として生まれる
信玄は1521年に、甲斐守護の武田信虎の次男として誕生しました。
幼名は太郎といいます。
信玄には兄がいましたが、幼い頃に死去してしまい、これによって信虎の後継者になりました。
母は甲斐の有力な領主・大井氏から嫁いだ大井夫人です。
信玄が生まれる直前に、今川氏が甲斐に攻め込んで来ており、信虎は大井夫人を守りの固い城に退避させていました。
夫人はこの時に出産していますので、信玄は戦いの最中に生まれたことになります。
これに影響を受けた、というわけでもないでしょうが、信玄はその生涯を通し、ほぼ休みなく戦い続けることになります。
父の信虎は甲斐の統一に成功した優れた武将でしたが、周辺の諸大名との間に多くの抗争を抱えており、その戦火は信玄の代にも継承されていきました。
成長と結婚
信玄の傅役(教育係)には重臣の板垣信方が任じられます。
この信方は、後に信玄の腹心として大いに活躍することになります。
信玄は12才の時に武蔵(埼玉・東京あたり)の領主・上杉朝興の娘と結婚しますが、この夫人は翌年の出産の際に死去してしまい、子どもも助かりませんでした。
1536年になると15才で元服(成人)し、将軍・足利義晴から「晴」の一字をもらい受け、晴信と名のります。
この時に従五位下・大膳大夫(だいぜんだいぶ)という官職に叙任されました。
また、左大臣・三条公頼の娘を継室として迎え、再婚しています。
武家が京の公家の娘と結婚をするのは珍しいことでしたが、これは公家との関係が深い今川氏が斡旋したのだと言われています。
こうして信玄は、武田氏の家督を継ぐにふさわしい格式を備えていきました。
三条夫人とは仲睦まじい夫婦だったと言われており、2人の間には嫡男の義信や、娘の黄梅院が生まれています。
初陣と父との確執
信玄は元服した年に初陣を飾り、信濃(長野県)佐久郡への攻撃を行っています。
この頃に父・信虎は信濃への侵攻を盛んに行うようになっており、この方針は信玄にも受け継がれていきました。
しかし一方で、信玄と信虎の間には確執が発生しており、信玄は父の追放を計画するようになります。
信虎は勇猛な武将でしたが、暴慢なところがあり、家臣を何人も手討ちにしたり、盛んに外征を行って領民たちに大きな負担を課していたことから、甲斐における支持を失いつつありました。
また、信玄の弟・信繁が生まれた後に寵愛がそちらに移っており、信玄との関係が悪化していた、とも言われています。
こうした背景があったことから、信玄は板垣信方や甘利虎泰(あまりとらやす)、飯富虎昌(おぶとらまさ)といった重臣たちと結託し、信虎の国外追放を実行に移します。
信虎が姻戚関係にある今川氏を訪ねるため、駿河(静岡県)に赴いた際に、甲斐との国境を封鎖し、そのまま追い出してしまいました。
信虎は帰国をあきらめて今川氏の元で暮らすようになり、信玄は実権の掌握に成功しています。
これは1541年の出来事で、信玄はこの時まだ20才でした。
こうして信玄は甲斐一国の領主となり、武田氏を主導して繁栄に導いて行くことになります。
この信虎追放の措置は、領民たちから歓迎されたと伝わっています。
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