その後の武田氏
信玄の後を継いだ勝頼は、積極的に外征を行い、美濃や遠江に勢力を拡大していきます。
しかし長篠城をめぐる戦いで信長と家康の連合軍に大敗を喫し、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊らの、信玄が育て上げた重臣たちを戦死させてしまいました。
その後は外交政策の失敗もあってさらに窮地に陥り、最後は家臣たちにことごとく寝返られてしまいます。
1582年に信長の嫡男・織田信忠に甲斐を攻め落とされて敗北し、最後は武田氏ゆかりの天目山に登り、そこで自害して果てました。
これは信玄の死から、わずか9年後のことでした。
こうして信玄の築いた武田氏の大勢力は、短期間でもろくも崩壊してしまいます。
信玄がそれだけ偉大であったということでもありますが、権力の継承をうまく行えなかったことが、一番の問題だったと思われます。
甲斐は古い時代からの勢力が多数存在しており、統治の難しい土地でした。
それを信玄が優れた手腕でまとめ上げ、戦力として活用していたのですが、武田氏に征服された諏訪氏の棟梁として育った勝頼では、これを束ねにくいという血統的な問題を抱えてしまい、それが家臣団との軋轢と、分裂を招いてしまったようです。
家康から尊敬を受ける
家康は信玄に散々に苦しめられたものの、後にその政策や制度を参考にし、天下を治める上で活用しています。
既に触れた通り、家臣の井伊直政が山県昌景がその名を高めた「赤備え」を率いて各地で奮戦したり、信玄の定めた貨幣制度をそのまま江戸幕府で用いたりしました。
また、古くから仕える家臣たちを譜代として政治に参画させ、後から仕えた者たちを外様として扱って地方の統治を委ねるやりかたも、信玄の人事制度に似たところがあります。
家康は信玄の嫡流が絶えた後、自身の五男・信吉に武田姓を名のらせ、その復興を試みています。
信吉が早世してしまったため、再び武田氏は絶えてしまうのですが、この措置は家康が強大な敵であった武田氏を高く評価し、信玄のことを尊敬していたことの証なのだとされています。
こうして天下人になった家康に大事に扱われたことから、江戸時代を通して信玄への人気と評価が高まっていき、現代にもそれが継承されています。