上洛の準備
信玄は上洛作戦を行うにあたり、周辺の勢力への手当てを行います。
北条氏は氏康から氏政に代がわりしており、氏政は信玄と敵対する意向を持っていなかったことから、和解して再び同盟を結んでいます。
上杉謙信は上野で武田氏の城を攻めていましたが、これを牽制するため、加賀と越中の一向一揆に働きかけて挙兵させ、謙信を北陸に釘付けにします。
このようにして、外交と謀略によって後背の安全を確保すると、信玄はいよいよ上洛を開始します。
上洛作戦の開始
信玄は1572年になると、甲斐から3万の大軍を発し、部隊を2つに分け、遠江と三河への同時攻撃を行います。
信玄は本隊を率いて遠江に向かい、山県昌景が別働隊を率いて三河を攻めました。
同時に信玄は、信長と北近江(滋賀県)で戦っていた浅井長政と朝倉義景に使者を送り、信長の主力を引きつけ、そのまま釘付けにするようにと要請しています。
そうすることで、がら空きになっている信長の本拠の尾張と美濃を制圧し、信長を滅ぼそうというのが信玄の作戦でした。
信玄の戦略は実に的確なものであり、これがそのまま実行されていれば、信長の勢力は壊滅した可能性が高かったでしょう。
遠江と三河・美濃にも勢力を得る
信玄は10月に遠江に入ると、徳川氏に属する城を次々と攻め落とします。
山県昌景も順調に三河の攻略を進め、いくつかの城を攻め落として信玄と合流しました。
すると東美濃の岩村城が調略によって信玄の側に寝返り、信長の領地にも楔を打ち込むことに成功します。
12月には遠江の要衝である二俣城を攻め落とし、援軍にやってきた家康を退け、同地における優位を確定させました。
一方でこの時に信長は浅井・朝倉・石山本願寺の軍勢と対峙しており、兵力に余裕がありませんでした。
このため、家康の元に送れた援軍は、わずか3千ほどにとどまっています。
家康が自由に動かせる兵力は8千でしかなく、合わせて1万1千というのが、野戦に使える戦力でした。
このため、家康は本拠である浜松城に籠城し、武田軍を待ち構えます。
しかし信玄はこれを素通りし、三河方面に向けて進軍しました。
三方ヶ原の戦い
信玄に無視されたかっこうになりましたが、家康はこの屈辱に対し、武田軍への追撃を決意します。
武田軍3万に対し、徳川・織田連合軍は1万1千でしかありませんでしたので、この追撃は無謀であり、家臣や織田軍の武将たちの強い反対を受けます。
しかし家康はこれを押し切って浜松城から出陣し、武田軍を追跡し始めました。
この時に家康は、武田軍が三方ヶ原の台地を登りきり、下り始めた機会に攻撃をしかければ、地勢の有利を得て勝利できるのでは、と考えたようです。
信玄はそのような家康の動きを予測しきっており、三方ヶ原の坂の上に軍勢を留め、家康の到着を待ちました。
家康が三方ヶ原に到着した時に目にしたのは、台地の上で戦闘準備を整え、自分を待ち構えている武田軍の姿でした。
この時は夕方でしたので、西日が武田軍の背からさしていたはずで、この点も武田軍の有利に働いたと思われます。
信玄は中央突破を狙う魚鱗の陣を敷き、家康は左右から包囲しようとする鶴翼の陣を敷きました。
戦いが始まると、数に勝り、有利な地勢をも占める武田軍が徳川軍を圧倒し、わずか2時間程度の戦闘でありながら、徳川軍に2千もの死傷者を出させて壊滅させています。
家康は本多忠勝らの家臣たちにかばわれてかろうじて撤退し、浜松城に戻りました。
信玄は浜松城を放置し、そのまま三河に進軍しています。
これは家康を攻め滅ぼす絶好の機会でしたが、この時の信玄は自分に残された時間が少ないことを悟っており、浜松城の攻略に時間をかけている場合ではないと判断したのかもしれません。
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