武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について

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包囲網への対処

この時の信玄は、北の上杉謙信、東の北条氏康、南の徳川家康と、3方に敵を抱えて包囲された状況にありました。

これを打破するため、盛んに外交を用います。

まず京都に上洛して将軍となった足利義昭と、彼を補佐する織田信長に働きかけ、上杉謙信と和睦を試みます。

謙信は足利将軍家の存在を重視していましたので、これを受け入れて和睦が成立しました。

さらに北条氏に対抗するため、北関東の佐竹氏や簗田氏と同盟を結び、北条氏を北から牽制させます。

そして1569年には相模(神奈川県)に侵入し、北条氏の本拠である小田原城を包囲しました。

小田原城を陥落させることはできませんでしたが、撤退の際に追撃してきた北条軍に痛手を与え、駿河に介入する余力を失わせます。

こうして外交と軍事力を駆使し、対抗勢力の押さえ込みに成功しました。

このあたりの信玄の手腕は実に見事なもので、この時代における一番の実力者であった、と言っても過言ではないでしょう。

信長が最も恐れた、というのもうなずける話です。

信長の飛躍と信玄との差

信玄が駿河の攻略に取りかかっていた頃、信長は美濃の征服を完了し、将軍家の血筋を引く足利義昭を迎え、上洛の大義名分を得ていました。

そして1568年に大軍を率いて京都に向かい、六角氏などを蹴散らして上洛に成功しています。

そして義昭を将軍の地位につけ、畿内にも勢力を拡大しました。

こうして信長は一気に領地を増やし、信玄の勢力規模を追い抜いています。

信長と信玄は、戦国大名としての総合的な能力にはさほどの差はなかったと思われますが、信長は京に近く、農業的にも商業的にも豊かな尾張や美濃を基盤としており、この点が信玄よりも有利でした。

一方で信玄は山国を拠点にし、当時の甲斐は後進地帯であったため、信長に遅れを取ることになりました。

このように、両者の勢力の拡大の速度には、個人の能力だけでは埋めがたい、地域の格差が影響を及ぼしています。

駿河の掌握

信長が京で権勢をふるい始めていた頃、外交によって情勢を整えた信玄は再び駿河に侵攻し、これを完全に制圧しました。

この時をもって、戦国大名としての今川氏は完全に滅亡しています。

信玄は念願であった海に面した土地を手に入れ、新たに海軍を編成します。

こうして信玄は東海道への進出に成功し、3ヶ国の主になりました。

石高は120万石にも達し、揺るぎない大勢力を築き上げています。

しかし信長は既に中央を制しており、信玄の覇道にとって、最大の障壁として立ちふさがることになります。

戦国最強の評判と赤備え

石高や兵士数だけであれば、信長の方が信玄を上回っていましたが、その軍団の強さでは、武田軍が上回っていると考えられていました。

世の人々は武田軍と上杉軍がこの時代で最強の軍団であると評価しており、信長の天下はこの両軍団が中央に向かって乗り出せば、どうなるかわからないと見なしています。

そのような評判を得ていた武田軍でしたが、その中でも特に強いと言われたのが、山県昌景が率いる「赤備え」と呼ばれる部隊でした。

赤備えはもともとは、昌景の兄・飯富虎昌が創設した部隊でした。

虎昌が処刑された後に、昌景は山県氏の家督を継ぎ、姓を変えています。

そして同時に赤備えを引き継ぎ、戦場で大いに活躍し、他勢力から畏怖されるほどの存在になります。

ある時「どうして山県隊はそれほど強いのか」と昌景にたずねた武将がいました。

それに対し、昌景は「訓練に励むのも重要ですが、一番大切なのは、いつも慎重に策を練り、勝てると確信しない限り戦わないようにすることです」と答えました。

軍の強さは兵や装備の質の高さによるところも大きいですが、各武将がこのように、自分で戦術を考える力を持っていたことが、武田軍の強さの源だったのでしょう。

赤備えは「最強部隊」の代名詞となり、後に井伊直政や真田信繁(幸村)が部隊の装備を赤色に統一し、これにあやかっています。

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