武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について

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信玄の資金源

信玄は毎年のように多くの軍勢を動かして信濃を支配していきましたが、その原動力となっていたのが、金山からの多額の収入でした。

信玄は甲斐の金山を支配下に治め、金掘衆と呼ばれる採掘の専門家たちにその運営を委ねています。

金掘衆は南蛮渡来の先進技術を用いて莫大な量の金を採掘し、これが信玄の軍事活動の資金源になりました。

この収入を外交や内政の費用にもあて、勢力の拡大に活用しています。

また、日本で初となる金貨の鋳造を行っており、1両=4分=16朱という4進法によって、各通貨の価値を定めました。

この単位は後に徳川家康に引き継がれ、江戸時代を通して全国で用いられています。

信玄堤の建設

甲斐は平野部が少なく、農業収入が乏しい土地でしたが、この弱点を克服するため、信玄は治水工事を行って耕作面積の拡大を図っています。

甲府盆地では釜無川と笛吹川という、2つの大きな河川が氾濫しやすいという問題があったため、信玄は大規模な治水工事を行ってこれを鎮めました。

そして釜無川と他の河川の合流地点に堤防を築いています。

これが「信玄堤」と呼ばれ、現代にも伝わっています。

こうした政策によって甲斐の農業を発展させ、遠征に必要な食糧の確保を行いました。

これらの工事の費用には、先に述べた金山の収入が注がれていったものと思われます。

信玄は単に戦争に強いだけの人物ではなく、国を発展させる手腕にも長けていました。

謙信の関東侵入と、氏康からの援助要請

信玄が出家したその年に、謙信は上杉憲政から関東管領の官職と、上杉姓を引き継きいでいます。

関東管領は関東地方の諸大名を統括する高い地位でしたが、足利幕府の権威が衰えるにつれ、管領もまた軽視されるようになっていきました。

しかし謙信は管領となったことを重視し、その職務を果たすべく、1561年に関東に攻め入りました。

そして諸侯に呼びかけて10万という大軍を組織しています。

この頃の関東は北条氏康が席巻しており、各地に勢力を伸ばしていましたが、謙信が集めた大軍との対決を避け、小田原城に籠城します。

やがて謙信は小田原城を包囲して攻撃を開始し、危機に陥った氏康は信玄に支援を要請しました。

これを受けて信玄は、謙信が不在の間に北信濃に進出し、勢力の拡大を図ります。

そして川中島に海津城を築き、重臣の高坂昌信を城主に任じ、同地の支配力を強化しました。

川中島が完全に信玄の支配下に落ちると、そこから越後への進出も可能になるため、謙信はこの動きを放置することができませんでした。

この影響で、謙信はやがて関東から兵を引かざるを得なくなり、撤退しています。

こうして信玄は氏康を援護しつつ、またしても北信濃での勢力の拡大に成功しました。

第四次川中島の戦い

謙信が関東での戦いを続ける上で、北信濃に進出してくる信玄が邪魔になっていました。

このため、今度こそ信玄と決着をつけるべく、小田原から帰還した謙信は、1万8千の兵を率いて北信濃に出陣します。

そして善光寺に5千の部隊を残し、1万3千の兵力で川中島の南にある妻女山に布陣しました。

妻女山は海津城の向かいにあり、謙信の意図は海津城の攻略にあると見られていました。

この動きが海津城主・高坂昌信によって信玄に知らされると、信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出発し、海津城の救援に向かいます。

信玄は妻女山の近くにある塩崎城に入り、そこでしばし謙信の動向を観察します。

謙信は信玄の到着前に海津城を攻めることができましたが、なぜか全く動かず、妻女山に滞陣し続けています。

信玄はこれを不審に思いつつも、やがて海津城に移動して高坂昌信の部隊と合流しました。

謙信のいた妻女山は物資の補給が難しい孤立した地形で、長く滞陣し続けるべき場所ではありませんでした。

戦術の天才である謙信がそれを理解していないはずがなく、この時の行動は謎めいています。

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