きつつき戦法
戦況が膠着する中、信玄もまた攻撃をしかけなかったことから軍勢に緩みが生じ、士気の低下が懸念される状況になります。
このため、飯富虎昌や馬場信春といった重臣たちが攻撃を進言しますが、信玄は謙信らしからぬ無意味な滞陣の意図を図りかね、これを警戒して容易に動こうとはしませんでした。
しかしいつまでも手をこまねいてもいられないと思ったのか、信玄は家臣たちに作戦の立案を命じ、馬場信春と山本勘助がこれを担当しました。
そして両者は「きつつき戦法」と呼ばれる作戦を立案し、信玄に提案します。
これは2万の武田軍を、本隊8千と別働隊1万2千に分け、別働隊が妻女山を奇襲して謙信を山から降りさせ、そこを本隊が迎撃して別働隊と共に包囲し、殲滅する、というものでした。
この時代ではきつつきが木をくちばしで叩いて虫を木の穴から追い出し、捕食すると信じられており、このためにきつつき戦法と名づけられました。
信玄はこの作戦案を採用し、謙信に攻撃をしかけることにします。
謙信との対戦において、信玄が積極的な攻勢に出るのはこれが初めてのことでした。
信玄はそれほどに謙信の戦術能力を警戒していたようです。
この作戦では本隊の数が少なくなりすぎるきらいがあり、この点が不安要因でした。
しかし謙信にしては珍しく、不利な地勢に滞在し、軍勢の数も武田軍よりかなり少ない状態でしたので、これを謙信を討ち破る好機ととらえ、信玄はリスクに目をつぶったのでしょう。
しかし、これは謙信のしかけた罠だったようです。
謙信の密かな行軍
謙信は妻女山の上から武田軍の動向を観察していましたが、海津城から立ち上る、食事の支度をするための煙の量が、いつもよりも多いことに気づきます。
これによって武田軍が動いてくると察知し、家臣たちに物音を立てぬようにと命じ、夜のうちに密かに妻女山を降り、麓にある八幡原へと向かいました。
謙信は不利な地形に滞陣することで、武田軍が攻撃しやすい情勢を作り出し、それによって信玄を城から引きずり出して野戦に持ち込もうと考えていたようです。
信玄はこれに乗ってしまい、謙信が得意な野戦で対決することになりました。
その日の深夜、高坂昌信や馬場信春、飯富虎昌らが率いる別働隊が妻女山に向かいますが、謙信は既に山を降りてしまっていました。
そうとは知らぬ信玄は、8千の部隊を率いて八幡原に布陣し、鶴翼の陣を敷いて包囲体制を取ります。
やがて夜が明けて見通しがよくなると、武田本隊は、八幡原に別の部隊が布陣していることに気づきます。
それは謙信が率いる1万2千の軍勢で、間もなく武田軍に向かって攻撃をしかけてきました。
八幡原の戦い
この時に謙信は車懸りの陣という、波状攻撃をしかける陣形を敷き、配下の猛将・柿崎景家を先鋒にして武田軍に猛攻を加えました。
数の不利を抱え、不意を打たれたことで武田軍は苦戦し、信玄の弟の信繁や、作戦を立案した山本勘助らが討死にしてしまいます。
そして信玄の本陣が敵に露呈され、これを見た謙信が本陣に切り込んだ、という伝説が生まれました。
これは史実なのかは定かではありませんが、謙信は自ら陣の中に馬を乗り入れ、信玄に太刀で切りかかったと言われています。
信玄は手にしていた軍配でこれを受け、なんとか防ぐうちに近習の侍が謙信の馬を攻撃し、撃退しました。
このような話が語られるほどに、信玄の身辺にも危機が迫っており、実際に負傷しています。
しかし本隊がかろうじて持ちこたえている間に、妻女山がもぬけの殻であると気づいた別働隊が、急ぎ八幡原に向かってきていました。
そして同時に、信玄の嫡男・義信が優れた働きを見せます。
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