真田昌幸は有名な真田幸村の父親で、当人も優れた軍略家として知られた人物です。
しかし一方で「表裏比興(ひょうりひきょう)」の者、と評されたりもしています。
これは老獪なくわせ者、といった意味で、その才覚を褒めているような、嘲っているような、微妙なニュアンスが込められています。
どうして真田昌幸はそう評されるようになったのか、そのあたりをこの文章で書いてみたいと思います。
真田家の三男として生まれる
昌幸は信濃(長野県)の豪族・真田幸隆の三男として生まれました。
兄が2人いましたので、この時点では真田家の相続権を持っていませんでした。
真田家はこのころ甲斐(山梨県)と信濃を支配する武田家に仕えており、昌幸は7才の時に人質として武田信玄の元に送られます。
幼い頃から信玄にその才能を見出され、寵愛を受けたと言われています。
その後、成長した昌幸は跡継ぎのいない武藤家の養子となり、武藤喜兵衛と名のるようになります。
武藤家は武田家から妻を迎えており、親族衆となっていた甲斐の有力な国人領主の一族です。
その家を継げたのは、人物も能力も高く評価されていたことの証しと見てもよいでしょう。
真田家は武田家に長く仕えた家ではなく、甲斐の豪族たちとの関係は深いものではありませんでしたので。
武藤家を継いだ昌幸は各地の戦役に参加し、使者を務めたことなどの記録が残されています。
信玄の晩年には奉行人に加えられ、行政に携わっていたことも確認されています。
この時期は武田家に仕える武将のひとりとして多方面で活動していた、ということになります。
長篠の戦いで兄たちが戦死
昌幸の兄、信綱や昌輝は、ともに武田二十四将に数えられ、優れた武将として知られていました。
しかしこの2人の兄は、1575年に発生した「長篠の戦い」で戦死してしまいます。
長篠の戦いは織田・徳川連合軍と武田軍が激突した戦いですが、これに武田軍は大敗します。
そして真田兄弟だけでなく、山県昌景や内藤昌豊、馬場信春といった、信玄の代から武田家に仕える優秀な武将たちを数多く失ってしまいました。
昌幸もこの戦いに参加していましたが、総大将・武田勝頼の身辺を守る旗本衆を務めていたため、戦死せずにすんでいます。
この敗戦が武田家衰退の決定的な契機となるのですが、昌幸の運命も大きく変わることになります。
2人の兄が戦死したため、昌幸は真田家に復帰し、その家督を相続します。
この時、昌幸は28才でした。
上野への侵攻
真田家を継いだ昌幸は、勝頼の命を受けて上野(群馬県)への侵攻作戦を開始します。
この頃の武田家は北陸の上杉家と同盟を結び、関東の北条家と対決する、という外交方針をとっています。
武田家と北条家の勢力がぶつかり合うのが上野であり、昌幸は北条家の領地を奪い取る役目を与えられていました。
昌幸は司令官としての才能を発揮し、一族とともに名胡桃城や小川城といった諸城を攻め落とし、さらに東上野の重要拠点である沼田城の奪取にも成功します。
この頃の武田家は各方面で劣勢となっていますが、昌幸の指揮する上野方面だけは武田方が優勢になっていました。
昌幸の能力が真に発揮され始めた時期だと言えるでしょう。
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