表裏比興の者
豊臣家臣・石田三成は書簡で昌幸を「表裏比興の者」と評したと言われますが、それは昌幸のここまでの変転ぶりへの驚きと、強大な徳川家や北条家の侵攻を防いで独立を保ったことへの賞賛が込められていたように思えます。
三成はその手腕に感心したのか、後に真田家と縁組を結んでいます。
昌幸がその領地として得たのは信濃・上野を合わせて7万石ほどで、中小規模の大名だったと言えます。
昌幸の才能からすると、もっと大きな領地を得ていてもおかしくなかったかもしれません。
しかし昌幸が独立を志向したのは、すでに各地方がひとつの大きな大名家の元にまとまっている時期であり、例えば織田信長が若いころのように、ひとつの地域が複数の勢力に分裂して争っているような時代ではありませんでした。
このためにいかに才覚があろうとも、この規模の大名になれるくらいが、時代の制約による限界だった、とも言えるでしょう。
その後の昌幸
その後は秀吉に仕え、北条征伐に参加したり、伏見城の普請役を務めたことなどが記録に残っています。
石田三成と徳川家康が対決した関ヶ原の合戦において西軍(石田方)に属し、上田城に再び徳川軍を迎え撃つことになります。
この時の真田軍の戦力は2千で、徳川軍は3万8千でした。
実に19倍の敵と戦ったことになります。
昌幸はこの戦いでも上田城に攻め込んできた徳川軍を撃退し、多大な損害を与えています。
しかし西軍が敗れたために昌幸は敗者となり、その領地は取り上げられてしまい、死罪を命じられます。
東軍に属していた長男の信幸と、その舅である本田忠勝が家康にとりなしを行い、死罪は免じられ、紀州(和歌山県)九度山に配流される処分を受けました。
昌幸は1611年、その地で没しています。
享年は65でした。
その後の真田氏
これでは昌幸のせっかくの努力は無に帰してしまったようにも見えますが、そうはなりませんでした。
昌幸の領地は信幸が引き継ぎ、加増も受けて10万石の大名になっています。
先に述べた通り、信幸は昌幸が家康と和解した後、徳川家に出仕しています。
そして家康の重臣・本田忠勝の娘が家康の養女となり、信幸と結婚しました。
つまり、信幸は家康の娘婿になっていたのです。
これは上田合戦の際の信幸の活躍が伝わり、家康や本田忠勝に見込まれた結果だと言われています。
その縁があって、信幸は関ヶ原の戦いでは東軍についていました。
こうして昌幸が心血を注いで作り上げた真田家の勢力は保たれ、より発展し、明治を迎える時まで続くことになります。
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