丹羽長秀は織田信長の重臣として活躍し、「織田家の双璧」とも呼ばれた優れた武将です。
軍事でも功績を上げていますが、安土城の普請奉行を務めるなど、行政面でも多くの実績を残しており、多方面に渡って活動しています。
織田家では「米五郎左」の異名で呼ばれ、米のように日々の用に欠かせず、なんでもこなせる器用な人物であると見なされていました。
羽柴秀吉や柴田勝家らに比べると、やや地味な存在ではありますが、清州会議や賤ヶ岳の戦いにおいて、戦国の覇権の行方に大きな影響を与える役割も果たしています。
この文章では、そんな長秀の生涯について書いてみます。
【丹羽長秀の肖像画】
斯波氏に仕える家に生まれるも、織田信長に仕える
長秀は1535年に、尾張(愛知県)の春日井郡に勢力を持つ、丹羽長政の次男として誕生しました。
丹羽氏は尾張守護・斯波氏の家臣でしたが、長秀が生まれた頃には、既に斯波氏は実力を失っており、名目だけの支配者になっていました。
このため、斯波氏への忠誠心はさほどなかったようで、長秀は尾張で勢力を伸ばし、随一の実力者となっていた織田信秀の嫡子・信長に仕えています。
これは1550年のことで、信長が織田家の家督を継ぐ、一年ほど前のことでした。
信長から信頼を受ける
長秀は信長よりも1才年下で、年齢が近かったこともあって、信長とは親しく接していました。
長秀の「長」の字は信長から与えられたものであり、さらに信長の養女(姪)を妻に迎えるなど、かなりの厚遇を受けています。
信長は長秀を単なる家臣として扱っておらず、「長秀は友であり、兄弟である」と述べるほどでした。
長秀は篤実な性格で、多様な仕事をこなせる器用さを備えており、このために信長にとっては安心して仕事を任せられる存在であったようです。
尾張統一戦に参加する
信長が家督を継いだ頃は、まだ尾張国内は織田氏の一族によって分割統治されている状態でした。
このため、信長は一族と抗争を繰り返しながら、少しずつ勢力を伸ばしていっています。
長秀はその過程で初陣を飾り、信長とその弟・信行が争った「稲生の戦い」でも、信長に味方して忠誠を示しています。
この時期には目立った軍功はなかったものの、戦場での経験は着実に積んでいたようで、長秀は次の美濃(岐阜県)の攻略戦で活躍することになります。
美濃の戦いで功績を上げる
信長はやがて尾張の統一に成功し、1560年に侵攻してきた今川義元を、「桶狭間の戦い」で退けた後、北に接する美濃への侵攻を開始します。
長秀の名は、この美濃での戦いの頃から目立ち始めました。
信長は1565年から美濃中部の攻略に取りかかり、要所である加治田城に調略をしかけます。
この時に内通工作を担当したのが長秀で、使者を通じて城主の佐藤忠能を寝返らせ、戦わずして重要拠点を手に入れることに成功します。
また、東美濃の攻略では総大将を任され、こちらも要所である猿啄(さるばみ)城の攻城に取りかかりました。
この時に織田軍は激しい抵抗を受けて苦戦しますが、長秀が水の供給を断ったことで籠城を継続できなくさせ、城主を退去へと追い込んでいます。
これらの活躍によって、長秀は信長の重臣としての地位を確立していきました。
南近江で秀吉とともに戦う
信長は長秀や木下秀吉らの、優れた家臣たちをうまく使いこなして美濃の攻略に成功し、二ヶ国を支配する大大名の地位を手に入れました。
そして将軍家の一族である足利義昭を推戴し、京への上洛を計画します。
しかしその途上にある、南近江(滋賀県南部)を支配する六角氏が信長の上洛を防ごうとしたため、戦いになりました。
この時に長秀は木下秀吉とともに、六角方の箕作(みつくり)城の攻略に取りかかり、わずか1日でこれを落城させています。
長秀は3千の兵を率いており、秀吉は2千3百でしたので、この時点では秀吉よりも立場が上であったことになります。
しかし城を攻め落とせたのは、秀吉の優れた働きによるところが大きく、この頃から新参者であった秀吉が、織田氏の中でめきめきと頭角を表して行きます。
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