毛利勝永は豊臣秀吉の家臣で、「大坂夏の陣」の戦場で大活躍した武将です。
この時に活躍した武将の中では真田幸村(信繁)が最も有名ですが、勝永もそれに劣らぬ働きを見せています。
この文章では豊臣家に仕え、その最後を見届けた武将について書いてみます。
森から毛利へ
毛利と言えば中国地方を支配していた毛利氏のことが思い浮かぶかと思いますが、毛利勝永はこの毛利氏の一族ではありません。
もともとは森(もり)という姓でしたが、勝永の父・吉成が毛利氏のところに人質として赴いたことがきっかけになり、姓を変更することになります。
森吉成は長く秀吉に仕え、母衣衆という精鋭部隊に属したこともある優れた武将です。
本能寺の変の直後に羽柴秀吉と毛利輝元が和睦し、その証人として毛利家の元に送られていました。
そして人質という立場でありながらも、吉成は輝元に気に入られ、毛利(もうり)の姓を名のったらどうかと勧められました。
吉成は人に好かれる人柄をしており、それに加えて姓の読みが似ていることからも親しみを持たれたのでしょう。
大大名である毛利の姓を使うのは遠慮があったのか、しばらくはそのままでしたが、吉成は秀吉の九州征伐の際に活躍し、一躍小倉6万石の大名になります。
これで毛利を名のるにふさわしい地位になったと判断されたのか、秀吉から命じられて改姓しました。
勝永もこの時に1万石の領地を与えられており、やがて成長すると秀吉配下の武将としての活動を始めます。
若き日の活躍と、領地の喪失
勝永は21才の時に朝鮮出兵に従軍し、目立った戦功を上げています。
また、その3年後の関が原の戦いの際にも特別に報奨を受けるほどの活躍を見せ、3000石を加増されました。
このように、若い頃から武将としての才能の片鱗を見せています。
しかし、関が原の戦いでは敗者である西軍に所属したことから、戦後に領地を没収され、土佐の山内一豊の預かりの身となってしまいます。
山内一豊とは父の代から親交があったので、勝永は手厚い保護を受け、1000石の領地を与えられるなどして、過不足のない生活を送ることができました。
そのままでいれば平穏な生活を送ることもできたでしょうが、1614年に戦雲が発生し、勝永は再び戦いに身を投じていくことになります。
大坂入城
この頃には豊臣秀頼と徳川家康の対立が深まっており、やがて大きな戦いが始まるのは時間の問題でした。
そこで秀頼は豊臣氏に縁のある武将たちを勧誘します。
勝永の元にも使者が訪れ、大坂城に入城するようにと招かれます。
豊臣家からかつて大きな恩を受けていた勝永はこれを受諾し、安全な生活を捨てて土佐からの脱出を計画します。
当時の土佐の領主は山内一豊の養子・忠義で、勝永はこの忠義と若い頃から個人的に親しい関係にありました。
忠義に、徳川方について大坂城を攻撃するのであれば、自分もぜひ従軍させてほしいと願い出ます。
その上で大坂方には味方しないと証明するため、長男を留守居役に、次男を人質として残すと約束し、忠義を油断させます。
勝永はその隙を突いて土佐を脱出し、長男と共に大坂城に入城してしまいました。
この結果、裏切られた忠義は激怒し、勝永の次男と妻は軟禁されることになります。
こうして大坂城に入った勝永は、豊臣家の諸将から歓迎されます。
そして真田幸村や後藤又兵衛といった武将たちと並んで軍を率いる大将となり、「大坂の五人衆」と呼ばれるようになりました。
しかしその年に行われた「大坂冬の陣」の戦いでは、目立った活躍はありませんでした。
この時には真田幸村が真田丸での迎撃戦で大きな戦果をあげたことで、一躍名を上げることになります。
勝永がすさまじい働きを見せて武将としての真価を発揮するのは、翌年の大坂夏の陣の、その最後の戦いでのことでした。
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