真田幸村はどうして大坂城の南に真田丸を築いたのか?

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真田幸村は「大坂冬の陣」の戦いにおいて、大坂城の南に真田丸という出城を築きました。

そしてそこを拠点として防戦にあたり、徳川方の攻撃を防ぎつつ、多大な損害を与えることに成功します。

この文章では真田丸と、それをめぐる戦いの様相について書いてみようと思います。

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【真田丸を築いて徳川家康と戦った真田幸村の肖像画】

真田幸村の大坂入城

1614年になると、豊臣氏と徳川氏の関係が急速に悪化し、一触即発の状態になっていました。

これを受け、徳川氏に比べると兵士の数で大きく劣っている豊臣氏は、主君を持たない浪人たちを集めることで、これを補おうとします。

そして関ヶ原の戦いで敗れるなどして領地を失っていた武将たちに使者を送り、豊臣氏のために働いてくれるようにと勧誘します。

誘われた武将たちの中には、真田幸村も含まれていました。

彼は信濃(長野)上田の大名・真田昌幸の次男で、父とともに西軍について戦い、敗者となった武将です。

戦後に領地を没収されたうえで紀州の九度山に流罪となり、そこで14年に渡って雌伏の時を過ごしていました。

幸村は豊臣氏からの誘いを受諾し、父の旧臣など150人の人数を揃え、大坂城へと向かいます。

そして「大坂の五人衆」と呼ばれた、浪人衆の指揮官のひとりに任命されます。

こうして幸村は豊臣方として、すでに天下を制していた徳川家康の大軍と戦うことになります。

真田丸は次善の策だった

幸村は軍議の席で、積極的に野戦に打って出て、京都の瀬田のあたりで徳川方を迎撃するようにと主張します。

豊臣方には援軍のあてがなく、城を包囲されればじり貧となり、いずれ敗れる可能性が高い情勢でした。

そのため、先制攻撃をしかけて家康を討ち取ってしまうべきだと幸村は主張したのです。

これには浪人衆の多くが賛同しましたが、豊臣氏の首脳部はこの提案を受け入れませんでした。

軍勢の数で豊臣方は大きく劣っていましたし、大坂城は当代随一の防御力を誇る城でしたので、それを頼って籠城すべきだと、慎重になってしまったようです。

それに、この頃の幸村はまだ無名の武将でしたので、作戦の成功がおぼつかないと判断されてしまったのでしょう。

そこで幸村は次善の策として、大坂城の南に出城を築く案を提示し、こちらは受け入れられました。

大坂城は周囲を深い堀に囲われた堅城でしたが、唯一南東部だけが周囲との地形の高低差が少なく、堀の幅も狭く、攻略しやすい弱点となっていました。

そこで幸村は、弱点部の前方に出城を築き、敵の注意をそちらに引きつけることで、大坂城の守りを強化する提案をしたのです。

幸村はかつて第二次上田合戦において、上田城に馬出しという突出部を設け、それを活用して敵に大きな打撃を与えた経験をしていました。

これを応用して、大坂城にも守備力と攻撃力を強化する施設を設置したのです。

この出城は、幸村の姓を取って「真田丸」と呼ばれることになります。

真田丸の構造

真田丸は大坂城から突き出した防御施設で、3つの方位からの攻撃に備えた出城でした。

南・東・西の三方に堀を設け、その上に塀を立てて防御力を高めています。

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【真田丸を復元したジオラマ】

北側は大坂城の堀に接し、間に橋を築いて城内と連携が取れるようにしていました。

主に敵を迎え討つ方面になると想定される、南側からの敵の攻撃は、豊富に備えた鉄砲で防ぎます。

そして、敵がこれを避けて西や東から回り込もうとすると、真田丸と、大坂城の内部から十字放火を受けることになるという、巧みな構造になっていました。

幸村はこの真田丸に5000の兵と共に籠もり、攻め寄せる徳川方の軍勢を迎え討つことになります。

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