長宗我部元親 土佐から四国統一を目指した「鳥無き島の蝙蝠」の生涯について

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長宗我部元親は戦国時代に四国制覇の野望を抱いて活躍した武将です。

しかし四国全土を手の内に収めたかと思ったまさにその時、中央から強大な勢力の侵攻を受け、その達成を阻まれてしまいます。

元親は幾度も降伏勧告を受けましたが、天下を手中に収める野心を抱いていたため、これを受け入れることはありませんでした。

この文章では、野心に駆り立てられて生きた、元親の生涯について書いてみます。

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【四国から天下を目指した長宗我部元親の肖像画】

長宗我部氏は土佐の一領主に過ぎなかった

長宗我部氏は土佐(高知)の七分の一程度を支配する小大名でしたが、元親の祖父の代に周辺の領主たちに攻めこまれ、領地を失っています。

その後、元親の父・国親は土佐在住の公家である一条氏のとりなしにより、領地を返還されます。

このことから見ても、長宗我部氏は土佐の中で際立って強い勢力であったとは言えません。

元親はその長宗我部氏の当主として、まずは土佐一国の制覇に乗り出すことになります。

初陣と家督相続

元親は子供の頃は柔弱で、「姫若子(お姫様のような男の子)」というあだ名で呼ばれていました。

しかしいざ初陣を果たすと、自ら槍を振るって多くの敵を倒し、また的確な指揮を取って城を攻め落としたことで、またたく間に武将としての評判を上げます。

この初陣の後、しばらくして父・国親が急死し、元親は長宗我部家の家督を相続することになります。

それが1560年のことで、これはちょうど織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破った年でもありました。

その後、元親は近隣の小大名・本山氏と戦い、おおよそ3年を費やしてその領土の大半を奪うことに成功します。

これは主に土佐の中部をめぐる支配権の争いでした。

追い詰められた本山氏は山奥にある堅城に籠もり、ここからしばらく戦況が膠着します。

美濃から妻を迎える

その頃に元親は遠く美濃(岐阜)から正室を迎えています。

美濃には斎藤氏という名族がいましたが、その家系につらなる女性と婚姻を結びました。

土佐と美濃でははるかな距離があり、政略上さしたる意味はなかったと思われますが、元親はこの結婚を、自ら強く望んで実現させました。

美濃の斎藤氏は代々武勇に秀でた家系であり、それにあやかるためだ、と元親自身が述べています。

この頃の土佐には、遠くから優れた家系の女性を迎え、その血を自分の家系に取り込むことで一族の発展を図る、という風習がありました。

この結婚によって長宗我部氏と斎藤氏は縁戚関係となりましたが、斎藤氏の当主・利三は後に明智光秀の重臣になり、織田信長の勢力に属することになります。

このため、やがて元親と織田信長の間にも関係が築かれることになります。

勢力の拡大

本山氏を山奥に追いやって後、元親は土佐東部を治める安芸氏とも抗争を始めます。

こちらの方面でも「一領具足」という制度によって増強した軍勢を率いて有利に戦いを進め、さらに勢力を拡大していきます。

一領具足とは、自作農の農民に従軍の義務を課し、代わりに将校としての身分を与える、という制度です。

この制度によって農民たちを兵士として取り込み、兵力を増大させています。

通常であれば兵士は食料や物資を消費するだけの人材ですが、自分で生産も行わせることで、これを抑えることができました。

この制度が、長宗我部軍が同等の勢力を持つ他の領主と戦う上で、有利に戦況を進められる原動力になっています。

一領具足たちの力によって戦力を増強させた元親は、1568年に本山氏を降伏させ、土佐の中央部を完全制覇します。

さらに翌1569年には安芸氏をも降し、土佐東部の平定にも成功します。

これで元親の勢力は、初期に比べておおよそ3倍にも膨れ上がりました。

【次のページに続く▼】

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