石川数正は徳川家康に仕え、家老となっていた人物です。
酒井忠次と並び、家臣団の筆頭とも言える立場にありましたが、やがて家康の元を出奔し、豊臣秀吉の家臣になっています。
数正は徳川氏の中枢にあり、家康が幼少のころより忠実に仕えていましたので、この出奔事件は驚きを呼び、当時の情勢に大きな影響をおよぼしました。
この文章ではどうして数正が家康の元を去ったのか、そのあたりについて書いてみたいと思います。
【長篠の戦いにおける石川数正】
数正の来歴
石川氏は代々、三河の碧海郡に勢力を持っていた豪族です。
河内源氏・源義家の子孫を名のっており、古くから三河に土着していたようです。
石川氏は家康の祖父・松平清康の代から仕えて重臣となり、西三河の政務を取り仕切る立場にありました。
石川数正はそのような家の生まれで、1533年に誕生しています。
徳川家康は幼少の時、今川義元によって人質にされていましたが、そのころから数正は側近くに仕えていました。
家康より10才ほど年長でしたので、身辺の世話をする役割だったと考えられます。
ちなみにこの時、酒井忠次もまた同じ役割を担っていました。
家康は自分に幼い時から仕えていた者たちを、重臣として起用したことになります。
交渉力に優れる
1560年に、今川義元は大軍を率いて尾張に攻め込みましたが、桶狭間において織田信長に返り討ちにされ、あえなく戦死しています。
すると家康は義元に従属する立場から開放され、三河で独立を果たすことになりました。
しかしここで問題になったのが、家康の妻子です。
家康の妻子は今川氏の本拠である駿河に在住していましたので、そのままにしておくと裏切り者の家族として、苦しい立場に置かれることになります。
この時に、今川氏との交渉にあたったのが数正でした。
ある時、三河における戦いに勝利し、家康は今川氏と縁戚関係にある2人の武将を捕虜にします。
すると数正は今川氏に働きかけ、彼らと家康の妻子の交換を持ちかけました。
そして交渉に成功し、家康の妻子を取り戻しています。
この時に救出したのが後の徳川信康で、数正の運命に大きく関わることになります。
この他にも、織田信長との交渉役も担当し、清洲同盟の締結にこぎつけており、他勢力との折衝に長けていたことがうかがえます。
このように、実績を積み重ねることで、数正は家康からの信頼を獲得していったのでした。
一向一揆で改宗する
1563年になると、家康と三河の一向宗との関係が悪化し、一揆が発生します。
すると家康の家臣たちの中にも、一揆に加わる者たちが出てきました。
もともと三河では一向宗の勢力が強く、信仰していた武士が多かったのです。
その中には数正の父である康正も含まれていました。
この時、数正は浄土宗への改宗を行います。
そして家康に味方して戦い、父と敵対する道を選びました。
このことから、数正が家康に強い忠誠心を抱いていたことがうかがえます。
西三河の旗頭となる
家康が一向一揆を鎮圧すると、数正は家老に任じられ、重用されるようになります。
幼少のころから仕えており、それに加え父と敵対してまでして、自分に忠義を尽くしたことを、家康が高く評価したためでしょう。
そして1569年には西三河の旗頭に任命され、東三河の旗頭である酒井忠次とともに、家臣団の筆頭級の地位につくようになります。
ちなみに酒井忠次もまた、一向一揆の際に他の酒井氏とたもとを分かち、家康に従っていました。
一向一揆は家康にとって、家臣をよりわけるきっかけとなり、自分についたものを重用するようになったのです。
家康の領地は三河・遠江と東西に伸びていきましたので、数正と忠次がその両翼を担って補佐する体制が作られたのでした。
信康の後見人となる
家康は遠江を完全に支配下におくと、東で武田氏と対立するようになったので、国境に近い浜松城を拠点にするようになりました。
このため、元の拠点である三河の岡崎城には嫡子である信康が入り、それを数正が後見人として補佐することになります。
信康を人質の立場から開放したのが数正でしたので、その功績に対する報奨であったとも考えられます。
そのまま行けば、数正は徳川氏の主君の後見人として、家中においてさらなる権勢を得ることになったでしょう。
しかし、やがて信康が粛清されたことにより、そのような未来は閉ざされてしまいました。
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