三浦胤義は承久の乱において、後鳥羽上皇方について戦った武士です。
鎌倉幕府の重臣である三浦義村の弟であり、本来は鎌倉方につくべき筋目の存在でした。
そんな彼がどうして上皇方の戦力の中心として戦うことになったのか、この文章ではそのあたりの経緯について書いていきたいと思います。
三浦胤義の経歴
三浦胤義は1185年ごろに誕生したと言われています。
これはちょうど源頼朝が、鎌倉において武家政権を樹立した年にあたります。
そして三浦氏は北条氏とならぶ幕府の実力者でしたので、そのまま流れに乗っていれば、順調な生涯を遅れる境遇に生まれていました。
実際、1205年に起きた畠山重忠の乱に参戦し、1213年の和田合戦では戦功を立てるなどしており、勝者の側について順当に活躍していた記録が残っています。
そして3代将軍・源実朝の身辺警護を務めてもおり、幕府から信頼を受けていたことがうかがえます。
そんな典型的な鎌倉武士とも言える胤義が、どうして幕府を裏切り、朝廷に味方することになったのでしょうか。
妻の影響
これには妻の影響があったとされています。
胤義の妻は、元は2代将軍・源頼家の側室だった女性でした。
しかし頼家は独裁的な政治を行って反発を買い、将軍の座を降ろされ、北条時政・義時らの指示によって殺害されています。
そしてその側室だった女性が生んでいた頼家の子どももまた、殺害されていたのです。
このため、胤義と再婚したあとも、かつて夫と子を失った女性は嘆き悲しみ続けており、その影響を受け、胤義は北条氏への反感を抱くようになったのでした。
胤義はそのような事情を抱えており、京に上った後はそのまま都にとどまり、検非違使という、都の警備長官の地位についていました。
ちなみに、胤義は九男だったので別名が九郎で、これは源義経と同じです。
そして義経もまた検非違使だったので、どちらも「九郎判官」(判官は検非違使の別名)だったことになります。
藤原秀康に勧誘される
承久の乱において、上皇方の武力の中心人物は、藤原秀康でした。
彼は高名な藤原秀郷の子孫で、後鳥羽上皇に仕えて立身していました。
上総介などの国司を歴任しており、大変に富裕だった人物でもあります。
やがて彼は後鳥羽上皇が立てた倒幕計画に参加し、胤義を味方に引き入れようとして説得にかかります。
すると胤義は妻の事情を話し、鎌倉に謀反を起こそうと考えていた、と秀康に告白し、計画に積極的に参加するようになりました。
胤義は有力者である三浦義村の弟でしたので、鎌倉方を切り崩す上で、その存在は重要であるとみなされていました。
また、少し前まで鎌倉にいたのだから、あちらの事情に通じているはずだと、そのあたりでも期待されていたことでしょう。
胤義の誤った判断
胤義の兄・三浦義村は謀略を得意とした人物で、政治力もあり、高い知性の持ち主でした。
しかし胤義はどうしたわけか兄を軽く見ており、「兄は賢くないので、高い地位を約束すれば必ずこちらに味方します」と後鳥羽上皇たちに吹き込んでいます。
また、「兄弟二人で日本を支配しようと手紙を送れば兄を味方にできる」「北条義時に味方する者など千人しかいないから簡単に討てる」などとも述べており、これによって後鳥羽上皇と秀康の計算が狂わされていった可能性が高くなっています。
つまるところ、胤義は軽率であり、粗忽な人物だったのです。
実際に義村に使者を送ってみると、義村は使者を追い返し、密書を北条義時に届け出てしまい、弟の呼びかけにはまったく応えませんでした。
義村は胤義たちの計画が無謀であると判断し、負けそうな方に味方をする気などなかったのです。
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