祇園精舎に鐘はなかった

スポンサーリンク

『平家物語』の冒頭には「祇園ぎおん精舎しょうじゃの鐘の声、諸行無常のひびきあり」という、有名な一節があります。

この『祇園精舎』とは、仏教の創始者である釈迦が滞在することもあった、宗教施設でした。

釈迦とその弟子たちは、雨季の間は精舎に滞在し、そこで釈迦の説法を聞いたり、瞑想をしたりして修行に励みました。

つまり精舎とは、お寺、伽藍がらんのことです。

雨季には植物が繁殖し、虫も増えますが、活動している間にそれらを踏みつけて殺生してしまうことがしばしばあり、それを避ける意図がありました。

釈迦の存命時には、5つの精舎がインド各地に建てられており、これを「天竺てんじく五精舎」と言います。

祇園精舎はそのうちの1つだということになります。

祇園精舎
【現代の祇園精舎の様子】

祇園精舎の建立のいきさつ

日本では「祇園」は花街の地名になっていますが、これは「人名+園林」の形で作られた言葉です。

その昔、インドにはコーサラという国があり、そこにスダッタという名の長者がいました。

この人は大変なお金持ちだったのですが、慈悲の心を持っており、身寄りのない人に食事を与える活動をしています。

このため、「給孤独ぎっこどく」という名で人々から呼ばれました。

このスダッタが、商用のためにラージャガハという地を訪れた際に、地元の長者から釈迦のことを教えられます。

そして釈迦に会って話を聞くと、すぐに帰依しました。

元々が福祉活動を行っていた人ですので、慈悲の教えを説く釈迦には、すぐに共感したのでしょう。

スダッタはそれから、釈迦に土地と建物を寄付しようと考えました。

先に述べたように、釈迦の教団では、雨季を過ごすための建物、すなわち精舎を必要としていたからです。

精舎は都市から少し離れた、静かなところにあるのが望ましいとされていました。

スダッタが地元のサーヴァッティーに戻り、適した土地を探してみたところ、南におよそ3kmほど離れた場所に、それが見つかります。

その土地は、コーサラの王子である、ジェータ太子が所有している園林(庭園と林)でした。

スダッタは太子に土地の購入を申し出ましたが、太子は「土地に金貨を敷き詰めたら譲ってやろう」と言います。

太子はスダッタをからかうつもりだったようですが、スダッタが本当に金貨を敷き詰めはじめると、これに驚いて土地を譲ることにしました。

こうして土地を手に入れたスダッタは、壮麗な精舎を建設します。

ここで出てきたジェータ太子は、漢字では「祇陀」と表記されます。

「祇」陀の所有していた「園」林に作られた「精舎」、だから「祇園精舎」というわけです。

鐘はなかった

さて、ここからが本題ですが、この祇園精舎に鐘はありませんでした。

インドに梵鐘ぼんしょうは存在しておらず、これは仏教が中国に伝来され、普及する過程で使われ始めたようです。

(「梵」は、清浄、神聖などを意味する言葉です)

中国には古代から青銅器文明がありましたが、その中で鐘も作られており、それが起源になったようです。

梵鐘の音には、聴いた者が苦しみから逃れ、悟りにいたる力があり、功徳のあるものだとされています。

6世紀ごろには、中国や朝鮮半島で作られるようになっており、その時代のものが現存しています。

これが日本にも入ってきて、700年ごろには国産品が作られるようにもなりました。

そして各地の寺院に設置されましたので、日本人の感覚では、寺には梵鐘があるものだ、という認識が、当たり前のものとして広まっていたのでしょう。

梵鐘
【日本の寺院にある梵鐘】

実際には、祇園精舎には梵鐘はなかったのですが、平家物語が書かれた当時の日本で、実際にインドまで行って見ることのできる人はいませんでした。

ですので、見たことはないが、寺院には鐘がつきものなのだから、当然その起源たる祇園精舎にも鐘はあるだろう。

だから「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」というフレーズで物語を始めよう、と平家物語の作者が考えたのではないでしょうか。

そして、平家物語を読んだり聞いたりした、当時の日本人たちも疑問に思わなかったようで、そのまま定着したようです。

つまりはインドと、中国・日本の仏教文化の違いによって生じたフレーズなのだということになります。