平将門は新皇を名のり、関東で独立しようとした人物です。
もともとは朝廷に反抗する意識は持っていませんでしたが、親族との抗争のはずみで国府を襲撃したことがきっかけで、謀反人となってしまいました。
これには当時の朝廷の統治能力が低下し、地方で騒乱が頻発していたことが影響しています。
このために将門は、勢いに任せて独立宣言をするのですが、それからわずか2ヶ月後に討たれてしまいました。
この文章では、そんな将門の生涯について書いています。
【平将門】
将門の生まれと一族
将門の生年は確定していないのですが、903年ごろだったと推測されています。
将門は下総国(千葉県中〜南部)で勢力を築いていた、平良将の三男でした。
その系図をたどると、五代前は桓武天皇で、皇室の血を引く一族の生まれです。
そして祖父の高望王が平姓を授かって臣籍降下し、898年に上総介(千葉県北部の長官)となりました。
この頃には、地方の長官は任命されても現地に赴任しないことが多かったのですが、高望は子供たちを連れて上総に向かいます。
そして任期が過ぎても京に戻らず、上総、下総、常陸(茨城県)で多くの農地を切り開き、関東における平氏の勢力基盤を築きました。
高望王はどうして関東に向かったのか
この頃の朝廷では藤原氏の、特定の家門(北家)の者が高位を独占するようになっており、他の氏族が入り込む余地がなくなっていました。
このため、才覚のある者たちは中央でくすぶるよりも、地方に出て、そこで勢力を築いた方がよいと考えるようになっていきます。
高望王もそのような風潮の影響を受け、一族を連れて関東に土着することを目指したのだと思われます。
こうして地方で新興勢力が台頭してくる一方で、朝廷では文学や宗教が偏重されるようになりました。
そして寺社の建築に巨額を投じた結果、財政難を引き起こします。
これを補うために重税が課されるようになり、政治に対する不満が高まっていきました。
このようにして、地方で実力を蓄える者たちが現れる一方で、中央はじわじわと衰微していく流れが発生することになります。
これが後に、武士が公家から権力を奪い取る動きへとつながっていきました。
父・良将と伯父たちについて
将門の父・良将は高望の三男でしたが、秀でた能力を備えていたようで、従四位下・鎮守府将軍にまで立身しています。
父の高望が従五位下でしたので、かなりの出世をしたのだと言えます。
一方で兄たちは、良将よりもだいぶ下の地位にしかついていません。
ですのでこのことを、おそらくは兄たちは快く思ってはいなかったでしょう。
やがて良将は、下総の豪族である県犬養春枝の娘と結婚し、10人の男子をもうけました。
この三男が将門です。
良将は、下総の豊田郡や猿島郡で開墾に取り組み、多くの私田を経営します。
一方で、長兄の国香は常陸に、次兄の良兼は上総に在住し、こちらも開墾事業を行いました。
そしてこの二人の兄はともに、常陸で勢力を築いていた、源護の娘たちと結婚します。
このことから、兄弟の中で、国香と良兼が強く結びつき、良将との間には距離があったのではないか、それが後の平氏一族の抗争につながったのではないかと、推測することができます。
父の死と都への出仕
良将は917、8年ごろに亡くなったとされており、そのとき将門は、まだ十代半ばの少年でした。
やがて将門は平安京に上り、藤原北家の氏長者であった藤原忠平に仕えるようになります。
忠平は当時右大臣で、後に最高位の太政大臣にまで出世しました。
将門は中央の実力者と結びつき、それによって父と同じように立身しようと考えたのでしょう。
将門は弓射の技に優れていたため、やがて忠平の推薦を受けて滝口の武士となり、内裏の警護役を務めました。
この頃には滝口小二郎と名のっています。
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