風上に立って優位を得る
戦いが始まると暴風が吹き始め、将門の陣から秀郷らの陣に向かって吹き寄せました。
このために有利な立ち位置を得た将門は、しきりに矢を浴びせかけて秀郷らを圧倒します。
貞盛の軍が奮戦し、将門の兵士八十人を討ち取りもしましたが、全体としては将門が優勢となり、秀郷と貞盛の軍勢は大半が逃げ散り、残るはわずか三百ばかりとなりました。
こうして戦いは将門の逆転勝利に終わりそうになったのですが、ここで将門は運に見放されてしまいます。
風向きが変わり、将門は討ち取られる
勝利を確信した将門が本陣に戻ろうとすると、風向きが逆になり、吹き付けてくるようになりました。
秀郷らはこの好機を見逃さず、残る兵を励まして攻撃をしかけてきます。
将門は駿馬に鞭を入れ、とって返して戦いますが、やがて一本の流れ矢が命中し、馬から落ちて死亡しました。
なんともあっけない幕切れとなりましたが、こうして将門の反乱は、はじまってからわずか2ヶ月で終焉してしまったのでした。
享年は38だったと言われています。
残念な結末
将門が身を滅ぼしたのは、興世王らのそそのかしに乗り、新皇を名のって関東を制圧しようとした、その軽率さにありました。
成功させるための目算もないのに動いたことで、わずかな期間で非業の死を遂げることになったのです。
これに対して『将門記』では「開かんとするつぼみが早くしぼみ、輝かんとする桂月がたちまち隠れてしまったようなものである」として、嘆いています。
朝廷が事態を正確に把握し、将門を関東鎮撫のために役立てようと、早くから地位を与えるなりして評価していれば、おそらく将門は反乱を起こすことはなかったでしょう。
この頃の朝廷の地方統治のありようにはかなり問題が多く、それが将門をして、反逆の道へと走らせたのだと言えます。
将門が一定の支持を集めたのは、朝廷に対する不満が地方で募っていたことの表れだと見なすこともできます。
そして将門が死後、人々から忘れられなかったのは、本来、将門にはさほどの非がなかったことが、知られていたからなのでしょう。
戦後処理
秀郷らは将門の首級を取ると、朝廷に反乱を鎮圧したことを報告しました。
既に触れていますが、将門の死以前に、「賊の総大将や兄弟、副将らを討ち取った者には官爵を与える」という告知が成されており、このために残党狩りが発生しています。
将門の弟である将頼や、藤原玄茂が相模で殺害され、興世王は上総で討ち取られました。
そして騒動の発端である藤原玄明は、常陸で斬られています。
その他の将門の弟たちは山野に隠れたものの、やがて追討を受け、全員が討ち取られたようです。
将門の子孫
将門の嫡子・将国は常陸の信田郷に逃げのび、その子の文国が信田氏と称し、将門の後を継いでいます。
しかし文国には男子がいなかったので養子を迎え、男系の血筋は絶えています。
一方で、次女が将門の従兄弟である平恒明と結婚し、その子孫が相馬・秩父・葛西・渋谷・江戸・川越氏となり、関東・東北地方に広がりました。
また、長女は貞盛に復讐しようと、数年のあいだ付け狙いましたが、ついに志を果たすことができず、剃髪して如蔵尼と称し、仏門に入ったと言われています。
勝者たち
こうして将門の一族が衰退した後、勝者たちは多いに栄えることになります。
源経基は、なんら武功はなかったのですが、将門を訴えたことが正しかったとされ、拘禁を解かれた後、従五位下に叙任されています。
また、将門を討ち取る上で主要な役割を果たした藤原秀郷は、従四位下となり、もっとも出世をし、近江に所領を与えられました。
そして貞盛は「多年の苦難をへて凶徒を討ち果たした」ことが評価され、正五位下になっています。
この経基の子孫が源頼朝で、貞盛の子孫が平清盛です。
つまり彼らの子孫からは、日本の支配権を握るほどの権力者が輩出されたことになり、そのきっかけが将門の乱と、その鎮圧にあったのだとも言えます。
秀郷の子孫もまた日本全国で栄え、東北や関東、九州などで、多数の武家の祖になっています。
(平安後期の奥州藤原氏や、戦国時代の蒲生氏や龍造寺氏、大友氏、立花氏などが秀郷の子孫です)
このようにして、将門の死を苗床にするようにして、武家が興隆していったのでした。
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