経基が朝廷に訴える
この事件によって、将門の調停は失敗に終わってしまい、やむなく本郷に戻っています。
そして興世王は武蔵の国府に留まりました。
一方で、京に戻った経基は、興世王と将門は、武芝に誘惑されて自分を討とうとした、と太政官に訴え出ます。
このため、将門の旧主人である太政大臣・藤原忠平は、将門に書状を送って実態を確かめようとしました。
これを受け、将門は常陸・下総・下野・上野・武蔵の五ヶ国の国府から「将門の謀反の風聞は事実と全く異なっている」と記された書状を取り寄せ、忠平の元に送ります。
これによって将門の無実が証明され、むしろ騒動を未然に防ごうとしたことを、功績として認めるべきではないかという議論がなされるようになりました。
このようにして将門の申し開きが認められると、逆に経基は讒言(偽りの訴え)の罪によって拘禁される結果となります。
将門の敵は減るが、貞盛が残る
この頃に、将門と敵対していた伯父の良兼は、敗戦の痛手から病に伏していましたが、やがて死去しました。
そして良正も源護も消息不明となっており、敵対勢力はほぼ消え失せています。
このため、常陸や下総のあたりは平穏になっていきましたが、ただ貞盛だけが、将門の仇敵として残っていました。
貞盛ははじめ、将門と争うつもりはなかったのですが、協調していた親類たちが倒された以上、この時点では引くことができなくなっていたと思われます。
平氏一族がこのような状況にあった中、またも新たな騒動が発生しました。
興世王が下総に移住する
興世王は経基が逃亡した後も、国府に残っていましたが、新たに赴任した百済貞連という国司と折り合いがつかず、険悪な関係となります。
そして心に不平をためこみ、やがて武蔵を離れて下総にやってきて、将門の領地内に奇遇するようになりました。
興世王は軽率で、騒動を引き起こしやすい性質を持っていたようですが、将門は以前の縁があったためか、彼を受け入れています。
これが結果として、将門に災いをもたらすことになりました。
常陸の騒動
一方、常陸には藤原玄明という実力者がおり、庄屋のような立場にありました。
各村の年貢を預かり、これを官物として納める役割を担っていたのですが、あるときから国司の催促に応じず、税を納めないようになります。
玄明は「国の乱人であり、民にとって害毒だった」と厳しく評されており、かなり問題のある人物だったようです。
このため、常陸の国司である藤原維幾がたびたび催促をしましたが、玄明がこれを拒んだので、ついに官符が発行され、追捕されそうになりました。
すると玄明は下総の豊田郡、つまりは将門の領地に逃れてきます。
そして玄明は持参した穀物を将門に渡してよしみを通じ、豊田郡に滞在することになりました。
裏側の事情
この経緯だけをみると、将門の行動は軽率なように見えるのですが、藤原維幾は将門が敵対する貞盛の叔母と結婚をしており、その縁者でした。
ですので、将門が玄明を受け入れたのは、貞盛の一派と敵対していた者だったから、という事情があったようです。
やがて維幾とその子・為憲は兵を率いて常陸の国境にまで出張り、玄明の引き渡しを要求してきました。
このため、将門は使者を送り、玄明の追捕の撤回を求めます。
維幾がこれを拒んだので合戦となりましたが、将門の敵ではなく、維幾と為憲はけちらされ、逃走しました。
この時に貞盛が維幾の軍勢に加わっていた、という話があり、将門が国司親子と戦ったのは、やはり貞盛との関係が原因だったようです。
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