平将門 新皇を名のって天慶の乱を起こすも、藤原秀郷に討たれた反逆者

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討伐軍が編成される

この知らせを聞いた朝廷は驚愕し、まずは寺社に調伏の祈祷をさせました。

同時期に、西国では藤原純友すみともが反乱を起こしていましたので、相当に狼狽したようです。

このことが、将門と純友が共謀して反乱を起こしたのだ、という伝説が生まれる原因になりました。
(史実ではないようです)

そして参議の藤原忠文ただふみ(式家の公卿)が征東大将軍に任命され、軍勢を率いて関東に向かうことになります。

さらに、将門とその弟や、反乱勢力の幹部を討った者には、官爵が与えられるという告知もなされました。

こうして将門討伐の気運が高まっていきます。

旧主に書状を送る

この頃に将門は、旧主・藤原忠平に書状を送り、自分の心情を明らかにしています。

書状の中で、将門は一族の良兼や貞盛らに戦いを挑まれたから応じただけで、自分からしかけたわけではなく、非がないことを主張しています。

そして常陸の国府を襲撃したのも、藤原為憲が兵乱を起こしたのが原因で、本意ではなかったと述べました。

このあたりは将門の弁明とも受け取れますが、もともとは一族間の抗争だったものが、国司親子が参入してきたことで、朝廷に対する反乱に発展してしまった、というのは流れとして正しい認識でしょう。

そして「自分は天皇から数えて五代目の子孫なのだから、関東を支配してもおかしくありません。

自分には武威があるし、それをふるって天下を制した事例は、史書をみれば珍しくもありません」といったことを述べ、関東を武力制圧し、勢力を維持するつもりだったことを示しています。

また、朝廷は将門が訴えれば将門になびき、将門の敵(貞盛や源護ら)が訴えればそちらになびく、といった具合に、腰が定まっていなかったことを批判しており、それが朝廷に従わなくなった理由なのだということも表明しています。

将門には野心があったというよりも、状況に流されつつ、戦いに勝利するうちに名声が高まり、統治の乱れに我慢がならず、ついには独立宣言をしてしまった、ということのようです。

ともあれ、新皇を名のって除目まで行ってしまった以上、もはや将門は行き着くところまで行くしかない状況に、自らを追い込んでいました。

貞盛の探索を行う

940年の1月中旬になると、将門は五千の兵を動員して常陸に出陣し、そこで貞盛と藤原為憲の探索を行いました。

これは10日にも及びましたが、貞盛らを発見することはできませんでした。

一方で、貞盛と源扶の妻を捕らえたのですが、将兵が彼女たちをはずかしめてしまいます。

その報告を受けた将門は、「女人の流浪する者があれば、すみやかに本国に返してやるのが定めである。

そして寡婦かふや孤独の者には、優しくするのが古来からの決まりだ。

決して無礼のふるまいがあってはならない」と述べ、衣装と、そして一首の歌を与えました。

「よそにても 風の便りに我は問う 枝離れたる花の宿やどりを」

(離れたところにいても、風の便りに私は問おう 枝を離れた花の行方を)

これによって、将門は彼女が夫・貞盛と離れてしまっていることを気づかったのでした。

将門は武芸一辺倒ではなく、和歌の教養も備えており、弱い立場にある者には優しくしていたことがうかがえます。

それが将門の人気を、押し上げていった要因だったのでしょう。

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