朝廷から追捕令が出る
こうして抗争が続く中、11月になると、再び官符が朝廷から出されます。
それには「良兼および源護、平貞盛、藤原公雅、秦清文らは将門を追捕すべし」といったことが書かれていました。
良兼らが朝廷に働きかけを行い、将門が罪人であると認定させたのです。
先に将門が都に赴いた際には、将門に非がないと認められたのに、わずか半年ほどで、それがくつがえってしまったのでした。
こうした対応のいい加減さが、将門が朝廷をあてにせず、侮るようになっていった原因になったと考えられます。
朝廷は地方の実情を把握せず、訴えてきた者の言い分を鵜呑みにして決済をしていたのでした。
しかし各国の役人たちは、官符を受け取っても、将門を討伐できるだけの実力は備えていませんでしたので、特に何ら対応はしませんでした。
このため、結局は良兼らが私兵を集め、将門を討とうとする状況には、変わりがなかったのです。
良兼が子春丸を寝返らせる
将門は戦いに強く、正面から攻撃してもなかなか勝利することはできないので、良兼は一計を案じ、将門の使い走りをしていた子春丸という者を、寝返らせることにします。
子春丸は常陸に親類がいて、しばしばそちらに出向いていました。
良兼はそれを知ると、常陸で子春丸を捕らえて自分のところに連れてこさせ、身分と財産を与えることを約束し、寝返りを促します。
すると子春丸はその気になり、寝返ると約束してから豊田郡へと帰りました。
そして将門の営所がある石井に向かい、宿泊をして武器庫の場所や、周囲の地理をすっかりと把握し、良兼に報告します。
これを受け、良兼は精鋭を八十騎ほど率い、奇襲をしかけるべく、石井に向かいました。
将門はこれを知り、迎撃する
こうして将門は危機に陥りかけましたが、将門の側も、抜け目なく間諜を良兼の陣営に送っていました。
その者は、子春丸が寝返ったことを知ると、良兼の陣営を抜け出し、将門に事態を報告します。
これを受け、将門が迎撃の準備をしていると、そこに良兼の軍勢がやってきました。
急なことだったので、将門の周囲には十数人程度しかいませんでしたが、将門は自ら積極的に討って出ます。
すると、襲撃が知られているとは予想していなかった良兼の軍勢は、驚いて崩れ立ちました。
そこに将門は次々と矢をあびせかけ、ひとりで四十四人、つまりは敵の半分以上を討ち取ってしまいます。
将門の武勇には、人並み外れたものがあったのでした。
この時討ち取った者の中には、裏切り者の子春丸も含まれています。
こうして将門は危機を脱しましたが、一方で敗れた良兼は気落ちしたのか、病に伏せるようになります。
将門はようやく伯父たちとの抗争に、決着をつけたのでした。
貞盛が都に逃れようとする
こうして良兼が敗北すると、残る貞盛は身の上に不安を感じ、京に逃れて事態を報告することにします。
それを知った将門は、「貞盛はまったくけしからぬ。自分ひとりが善人顔をして、他の者たちを悪く言うに違いない。これはしのびがたいことだ」と郎党たちに告げ、百騎を率いて追撃をかけました。
そして信濃(長野県)の小県で追いつき、千曲川の付近で合戦となります。
将門は貞盛を打ち破りますが、貞盛は山中に逃れました。
そしてそのまま逃げ切った貞盛は京にたどり着き、将門が予想したとおりに、太政官に訴え出ます。
「貞盛は任国に下り、官符をいだいて糺そうとしましたが、将門はいよいよ逆心をたくましくし、ますます暴悪をなしています」
このように述べたので、将門の立場がさらに悪くなっていきました。
ところで、根拠地から遠く離れた信濃で戦闘をしているあたり、豪族たちが思うままに私兵を動かす一方で、各地の国府はそれを咎める力を持っていなかったことがうかがえます。
このあたりの様子から、武士が日本において支配的な存在となっていくことの、萌芽が見受けられます。
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