平将門 新皇を名のって天慶の乱を起こすも、藤原秀郷に討たれた反逆者

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武蔵で騒動が発生する

こうして貞盛は取り逃がしたものの、敵対する主だった者たちは常陸からいなくなり、将門の勢力がおおいに拡大しました。

下総、上総、常陸に影響力を持ち、関東で随一の実力者になりつつあったのだと言えます。

ところでこの頃、隣国の武蔵むさし(埼玉から東京一帯)でも、騒動が発生していました。

武蔵権守ごんのかみ(副長官)の興世王おきよのおうと、武蔵すけ(補佐官)の源経基つねもと、そして足立郡司ぐんじ(地元の官吏)である武蔵武芝たけしばの三人が、確執を生じさせていたのです。

現代風に言い換えると、県庁の首脳部と県下の市長が仲違いをしていたようなもので、武蔵は内紛状態にあったのでした。

騒動のきっかけ

そのきっかけは、興世王と源経基が武蔵に赴任した際に、一緒になって「検注」という土地調査を行い、あわせて現地の豪族たちから貢ぎ物を得ようとしたことにあります。

しかしこの検注は、正式な国司が赴任した際に行われる慣例になっていました。

この時には国司が赴任していませんでしたので、武芝はこれを理由に検注を拒否します。

すると経基らは兵を繰り出して武芝の家を襲撃し、略奪を行いました。

武芝の邸宅のみならず、縁者の民家までも襲い、ことごとく財産を奪い取ります。

その行いは野盗のたぐいのものであり、これを正式に任命された地方官が行ったところに、当時の朝廷の統治の乱れが、顕著に見受けられます。

このため、武芝は山野に逃れ、私財の返還を求めたのですが、経基と興世王は応じず、それどころか兵力を見せつけ、威圧してくる始末でした。

興世王と源経基の来歴

興世王は皇族で、桓武天皇の子・伊豫いよ親王の子孫だとされていますが、確実な話ではなく、出自がはっきりとしていません。

いずれにしても、名に王がついていますので、皇族の出身者だったのは確かなようです。

そして源経基は清和天皇の孫で、源氏姓を賜って臣籍降下をした人物です。

つまりは将門の祖父である高望王と、同じような立場にあったのだと言えます。

そして地方官を歴任し、そこで私財を蓄え、源氏が興隆する基盤を作ったのですが、その実体は私兵を用いて人の財産を略奪する、といった行為も含まれていたのでした。

源氏の起こりというのは、決して輝かしいものではなかったようです。

皇族出身者で地方官となったのであれば、本来は範を示すべき立場にあったはずですが、そのような意識は、彼らにはなかったようです。

地方は食い荒らされていたということでもあり、それが朝廷への反発を生み出していったのではないかと考えられます。

武芝は将門に救援を求める

一方、武芝は古くから武蔵に土着していた一族の出身で、氷川ひかわ神社を祀るなどして勢力を持っていました。

「長年公務に励み、善政を行っていた」と『将門記』という史料には記されています。

しかし、興世王らに苦境に追い込まれたため、実力者となった将門に調停を依頼します。

将門はこれを受け、「武芝は我が近親ではなく、興世王も経基も、関係のある人ではない。

しかし国府のためにこの混乱を鎮定しなくては、朝廷のためにもなるまい。

だから三者を和睦せしめよう」と言って、兵を率いて武芝の元を訪れました。

将門の行為は、善意から出たものだったと言えます。

三者の調停を進めるも、経基が逃亡する

将門は武芝の元を訪れて説得すると、一緒に国府に出向き、興世王と武芝を対面させます。

この将門の働きかけによって両者は和解し、争いが収まりそうになりました。

しかし経基はひとりこれを不服として狭服山さふくやまに立て籠もり、そこから出てこなくなります。

なのでひとまず、将門は興世王と武芝が和解したことを示す酒宴を開いたのですが、その最中に武芝の家来が、勝手に経基の屯所に攻撃をしかけてしまいました。

一度は襲われて略奪を受けたのですから、恨みに思っていた者がいたのは当然だったのですが、これが厄介な事態を引き起こすことになります。

経基は、将門らが共謀して自分を殺害する気になったのだろうと勘違いをし、あわてて屯所を放棄して、京へと逃げ帰ります。

経基の子孫は、後に武家の棟梁の地位を得ることになるのですが、初代の経基は兵を率いた経験が乏しく、まったくの弱腰の人物だったのでした。

【次のページに続く▼】