酒井忠次は徳川家康の重臣で、その創業を支えた功臣です。
軍事と外交に長けており、家康にとって重要な戦いで、何度も大きな手柄を立てています。
その優れた働きぶりから、四天王の筆頭として後世からも高く評価されました。
この文章では、そんな忠次について書いています。
【酒井忠次の肖像画】
初めは松平広忠に仕える
酒井忠次は1527年に、三河の額田郡で誕生しました。
酒井氏は代々松平氏に仕えてきた家柄で、その重臣です。
忠次は初め、1才上の松平広忠に仕えていました。
家康に付き添って駿河におもむく
しかし広忠は1549年に、わずか24才で急死してしまいました。
これは病死とも暗殺だとも言われていますが、真相ははっきりしていません。
そしてその嫡男である竹千代(後の家康)は、駿河の今川義元のもとに送られ、そこで養育されることになります。
かねてより、松平氏は西から侵攻してくる織田氏に圧迫され、危機に陥っていました。
このため、今川氏に救援を求めますが、義元はその代償として、竹千代を駿河に人質として送ってくることを求めていたのです。
このような事態になると、忠次は竹千代に従って駿河に向かいました。
忠次はこの時23才で、随行者たちの中では最年長です。
なので一行を束ね、竹千代の世話や補佐をする立場にあったと考えられます。
このように、忠次は竹千代と幼いころから深いつながりを持っていたのでした。
家康は1543年の生まれですので、忠次よりも16才年下でした。
当時の感覚ですと、親子ほども年が離れていたことになります。
柴田勝家に勝利する
やがて竹千代は成長し、元服して松平元信、ついで元康を名のるようになります。
このころに、忠次は福谷城主となり、三河と尾張の国境付近にある城の守備につきました。
1556年になると、この城を織田方の柴田勝家が、2千の兵を率いて襲撃してきます。
すると大久保忠勝や阿部忠政といった三河の武士たちが救援に駆けつけ、忠次は城外に出て迎撃することにしました。
そして激戦となりましたが、忠次は勝利を収め、柴田勝家を敗走させることに成功します。
このころの三河は今川氏の支配下にあり、松平氏に仕える武士たちはその風下に置かれ、苦しい状況でした。
それだけに、三河武士の力だけで勝利を収めたこの戦いは、輝かしいものだとして数多くの書物に記録され、称賛されています。
それほどに、忠次たちの働きによって、三河の武士が励まされたということなのでしょう。
桶狭間の戦いで家康が独立し、家老となる
1560年になると、今川義元は2万5千の大軍を率い、尾張に攻め込みました。
しかし織田信長に奇襲をしかけられて討ち取られ、今川軍は壊滅状態になります。
するとこの機を利用し、元康は三河に戻って独立を果たすことにしました。
名を家康に変え、三河で今川氏に味方する勢力を討伐し、勢力の拡大を図っていきます。
そしてこの時に、忠次は家康から家老に任命され、家臣団の中枢を担っていくことになりました。
家康の叔母と結婚する
このころに忠次は、家康の叔母である碓井姫と結婚しています。
碓井姫は家康の父・広忠の妹です。
松平氏の一族に嫁いでいたのですが、夫が桶狭間の戦いで戦死したために、未亡人になっていました。
この姫が忠次と再婚したので、忠次は家康の義理の叔父という立場になります。
こうして忠次は家康と縁戚になり、その立場がさらに強まりました。
碓井姫との間には嫡男の家次と、本多氏の養子になった康俊が生まれています。
三河一向一揆が発生する
家康は織田信長と同盟を結び、各地で反抗する者を討伐し、順調に勢力を伸ばしていきます。
しかし1563年になると一向一揆が発生し、重大な危機にみまわれました。
三河では、広忠が一向宗に対し、税金を徴収しないなどの特権を与えていたのですが、これを家康が取り上げようとします。
すると一向宗は猛烈に反発し、門徒たちを動員して家康への反乱を起こしたのでした。
もともと、三河の武士の中には一向宗を信仰している者が多く、有力氏族の者たちもまた、反乱に加わってしまいます。
これは酒井氏も同様で、実力者である酒井忠尚もまた、家康への反乱を起こしました。
このような状況となりましたが、忠次は家康への忠義を守り、側を離れることはありませんでした。
この一揆は、1563年から翌年にまたがる大きな戦いとなりました。
ですが、家康が岡崎城付近の戦いで大勝を収めたり、家康に反抗することに疑問を感じていた武士たちが一揆から離脱する事態が相次ぎ、だんだんと収束に向かっていきます。
そして1564年の2月に一揆勢が和睦を申し入れたことで、完全に終結しました。
家康は和睦後に約束を破って一向宗の指導者たちを追放し、布教を禁じることで一揆の根を絶っています。
忠次はこの事件において、家康に味方し続けたことで、よりいっそうの信頼を得ることになりました。
それが次の人事に影響していると考えられます。
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