山内一豊は織田信長の家臣で、豊臣秀吉、徳川家康とその時々の勝者に仕えることで戦乱の時代を生き延びた武将です。
それほど大きな功績を立てることはなかったものの、妻の千代の助けを得て着実に出世を遂げ、最後は土佐一国の主にまでなっています。
当人はある程度の武勇はあるものの、特別に優れた能力はなかったのですが、周囲の人々の助けを得て勢力を築いていきました。
この文章ではそんな山内一豊について書いてみます。
【山内一豊の肖像画】
山内盛豊の子として生まれる
一豊は山内盛豊の三男として、1545年に誕生しています。
山内盛豊は尾張(愛知県)の岩倉城主・織田信賢の家老として仕えていた武将です。
織田信賢は尾張の北半分を支配しており、やがて尾張の南半分を制した新興勢力の織田信長と争うようになります。
そして1559年に信長に敗れて織田信賢は滅亡し、父の盛豊は討ち死にしてしまいます。
主家と当主を失ったことから山内一族は離散し、一豊は諸国を流浪することになりました。
一豊はこの時14才でした。
近江や美濃の領主たちの元を転々とする
一豊は父が亡くなった後、美濃(岐阜県)や近江(滋賀県)の領主たちに仕えています。
主を何度も変えていたようで、美濃の松倉城主・前野長康や、近江の勢多城主・山岡景隆ら、少なくとも4人の武将に仕えていたことがわかっています。
山岡景隆はやがて美濃を制した信長の配下になったのですが、1568年ごろに信長に逆らって出奔してしまいます。
一豊は取り残されることになり、その際に信長に仕官しています。
かつて父は信長と敵対したことがありましたが、この頃にはそのことは問題にならなかったようです。
一豊は信長から、その部将である木下秀吉の与力となるように命じられます。
与力とは、信長の直臣でありながらも、他の直臣(この場合は秀吉)の配下となって指揮を受ける立場のことを言います。
こうして一豊は秀吉の指揮下に入りましたが、この縁が後に大いに幸運をもたらすことになります。
父の死によって牢人するという不運に見舞われていましたが、この頃になると運のめぐりがよくなってきていたようです。
秀吉の家臣として転戦する
一豊は秀吉与力の武将として、1570年の「姉川の戦い」で初陣を飾りました。
この時すでに25才でしたので、当時としては遅めの初陣だったようです。
一豊はなかなかの武勇の持ち主で、信長と朝倉義景の決戦となった「刀根坂の戦い」では、顔を矢で討たれながらも奮戦し、朝倉氏の武将・三段崎勘右衛門を討ち取る武功を立てています。
この時、敵将を討ち取った一豊の頬には矢が突き刺さったままで、家臣の五藤為浄(ためきよ)が一豊の顔を踏みつけつつ、これを引き抜いたという逸話が残っています。
為浄の子孫がこの時の矢じりを家宝として引き継いでおり、現代では歴史史料として保管されています。
この時の功績を信長から賞賛され、一豊は400石の領地を与えられました。
これは10人程度を指揮する下級将校の立場になったことになります。
千代と結婚する
こうしてひとかどの武将として身を立てつつあった頃、一豊は千代という女性と結婚をしています。
千代は美濃の豪族の出身で、知識や教養を備えた聡明な女性でした。
この当時の武将の妻は、夫を助けて共に家を栄えさせる役割を担っており、言わば共同経営者のような立場にありました。
このため、頭脳の働きに優れた千代の存在に、一豊は出世を遂げる上でおおいに助けられることになります。
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