山内一豊 妻の千代に助けられ、国持ち大名にまで出世した武将

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関ヶ原の戦いに参戦する

一豊は美濃の関ヶ原で行われた決戦にも、2500の兵を率いて参戦しています。

そして南宮山に陣を構える毛利氏の大軍と対峙しますが、これを指揮していた吉川広家が既に家康と内通しており、終始軍を動かさないままでした。

このため、一豊は関ヶ原では直接敵と戦うことはなく、家康の勝利を見守ることになります。

前線は福島正則や黒田長政らの猛将たちが務めており、家康は一豊の武威にはそこまで期待はしていなかったのでしょう。

戦後に土佐一国の領主となる

一豊には目立った武功はありませんでしたが、小山評定での発言によって諸侯に家康の味方をするように促したことなどが評価され、その報奨として土佐一国を与えられています。

これによって一豊は10万石の国持ち大名にまで出世したことになります。

後に統治が安定して石高が増え、最終的に山内氏の領地は24万石にまで増大しています。

この時に一豊は55才で、これがその出世の最終到達点となりました。

後に家康と会った時に、家康は一豊に土佐の石高を尋ねています。

そして一豊が「10万石です」と答えると、「そんなに少なかったのか、20万石はあると思ってそなたを土佐の主にしたのだが。すまないことをした」と言って一豊を喜ばせました。

もちろん家康は土佐の石高を把握していたでしょうが、それほどに一豊の働きを評価している、と伝えたかったのでしょう。

みなが他者の動向をうかがう中、様子見をせずにいち早くその立場を鮮明にすることには、それほどの大きな影響があり、功績にもなるようです。

千代はそういった道理を理解した上で、一豊に手紙で助言をしたのでしょう。

土佐の統治を行う

土佐は長宗我部氏が支配していた土地で、一豊が入府しても、そうやすやすとその統治を受け入れませんでした。

土佐には「一領具足」という制度があり、農民が軍役を果たすかわりに、農地の税を取らないという独自の仕組みがありました。

この身分の権益を守るために、一領具足たちが一豊に反抗してきたのです。

一豊はこれまで長年仕えてきた武将たちに大きな領地を与えてその功労に報いつつ、長宗我部氏の旧臣の中から有能な者たちを見出し、家臣として登用していきます。

しかし領内の不安要素となる一領具足の制度を残すつもりはなく、これに対しては反抗者を厳しく処断します。

一領具足を温存すれば税収が少なくなる上、武装した民が土佐に多数存在することになり、大規模な反乱が起きる火種になってしまうからです。

こういった状況だったため、一豊は影武者を六人も用意し、土佐の各地の視察に赴く際には、暗殺されないようにと警戒していました。

1603年頃までには一領具足たちの反抗を鎮圧し、武器を取り上げてただの農民に戻しています。

このあたりは、かつて秀吉が行った刀狩りの政策を、土佐でも実行したことになります。

家臣を上士と郷士に分ける

また、長宗我部氏の旧臣の中でも、下級の武士たちは「郷士」として低い身分に縛り付け、決して藩政には参加させませんでした。

長宗我部氏の一部の旧臣と、掛川から連れてきた家臣たちは「上士」と呼ばれ、こちらだけを藩政に参加させています。

当時の土佐は文化的にかなり特異な土地で、よそからやってきた一豊とその家臣たちは、容易にこれと交われないと感じていたようです。

このため、身分がはっきりと分けられることになりました。

こうして土佐の武士の身分は二段階の階級制となり、これが幕末の動乱期に坂本龍馬らの、藩を離れて活動する志士たちが多数輩出される要因になっています。

郷士の身分では土佐藩に参政して倒幕に向かわせることができないため、藩を出て広く天下で活動する志士が多くなったのです。

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