秀吉の直臣となり、加増を受ける
1577年ごろになると、一豊は秀吉の直臣になりました。
信長の直臣の時と比べると身分が落ちたことになりますが、この補填として加増を受け、新たに秀吉が獲得した播磨(兵庫県南部)で2000石の領地を与えられています。
これによって50人程度を指揮する中級将校にまで出世したことになります。
一豊は目立つことは少なかったものの、戦いでは常にそれなりの戦功を立てていたようで、早くもなく遅くもない、といった程度の速度で穏当に出世を積み重ねています。
馬揃えで名馬を得る
1581年になると、信長は京都で「馬揃え」という軍事パレードを開催します。
この時に一豊も参加することになったのですが、あまりよい馬を持っていなかったため、どうしたものかと悩まされることになります。
この当時の武将たちにとって良い馬を持っているかどうかは、その名声に関わる重要な要因でした。
現代で言えば、よい車に乗っているかどうかでその人の経済力がわかるのと似ているかもしれません。
一豊は安土城下の市で鏡栗毛という優れた毛並みの名馬を見つけ、これを欲しますが予算が足りません。
その時に千代が、自らの化粧料(女性の個人資産)として保有していた黄金を一豊に渡し、馬の費用にあてさせて一豊の面目を施しました。
一豊は千代の黄金で買い求めた名馬に乗って馬揃えに参加し、信長の目にもとまって賞賛され、加増を受けることになりました。
この話は「内助の功」として広く知られており、かつては教科書にも採用されていたほどでした。
この他にも、一豊が築城の仕事の経費に困っていた時に、髪を売ってこれをまかなったという話もあり、夫を助けるよき妻としての逸話が千代には豊富に存在しています。
このように何かと千代に助けられ、一豊は名声を得て、仕事を無事にやりおおせていきました。
秀吉の元で転戦する
1582年には織田信長が家臣の明智光秀に討たれる「本能寺の変」が発生します。
そして秀吉が謀反人の明智光秀の討伐に成功したことで、一躍天下人をも狙える立場となり、一豊はその統一戦に参加していくことになります。
こうして秀吉の運が大きく開けたことになりますが、その家臣である一豊の運もまた、秀吉に引っ張られる形で開いていきます。
秀吉が伊勢で信長の重臣だった滝川一益と戦っていた際に、一豊は亀山城の攻城戦で一番乗りを果たすという軍功を立てています。
その代償として、長く仕えていた五藤為浄が戦死するという犠牲を出していますが、後にその一族を家老として遇し、これに報いています。
また、秀吉と徳川家康が対戦した「小牧・長久手の戦い」では、小牧山にこもった家康を包囲するための付城の築城を担当しており、単なる戦場での武働き以外の仕事も任されるようになっていました。
こうした戦いの結果、秀吉は天下人としての立場を確立してゆき、彼の元で長く働いていた一豊にも、大きな出世の機会が訪れることになります。
羽柴秀次の家老となり、小さいながらも大名となる
1585年になると、秀吉は養子の羽柴秀次を後継者に定め、大幅にその領地を加増しています。
一豊はこの秀次付きの家老となり、その政務を補佐することになります。
この人事はこれまでの一豊の、地味ながらも積み重ねた功績が認められてのことだったと思われます。
同僚には中村一氏や田中吉政など、低い身分から身を起こし、諸事に熟達した武将たちが選ばれていました。
秀吉はそういった経験豊富な武将たちに補佐させることで、秀次に自分の後継者にふさわしい見識と実力を身につけさせようとしたのでしょう。
秀次は近江八幡を統治しますが、一豊ら補佐役たちのおかげでこれをうまくやりこなし、善政をしいていると評判になるほどでした。
一豊は秀次の家老となったことで大幅な加増を受け、近江長浜に2万石の領地を与えられています。
こうして40才にして、ついに小さいながらも大名と呼ばれる身分になりました。
しかしその喜びもつかの間に、一豊と千代は大きな災害に見舞われることになります。
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