織田信長は1575年に、長篠で武田勝頼と戦って大勝利を収めました。
それまで武田軍は信長と、同盟者の徳川家康の前に強敵として立ちふさがっていましたが、この一戦によって優れた将兵を数多く失い、衰退の道をたどることになります。
この文章では、どうして信長と家康は武田軍を打ち破ることができたのか、について書いてみようと思います。
【長篠の戦いで大勝利を得た織田信長】
当時の信長の勢力
信長は1568年に上洛を果たした後、将軍・足利義昭の策謀によって周囲が敵だらけとなり、重大な危機に陥りました。
しかし、1573年に武田信玄が病死したことをきっかけに状況を覆します。
足利義昭を京から追放し、浅井・朝倉氏を攻め滅ぼし、謀反を起こした松永久秀を屈服させ、包囲網を打破して勢力を拡大しました。
この結果、信長の領地は400万石に達し、総兵力は10万以上となっています。
さらに、西に国境を接する勢力は波多野、一色、本願寺などで、彼らは信長の領地に攻め込むほどの実力を持たなかったため、東に戦力を振り向けやすい環境が整っていました。
家康の勢力
一方、家康は信玄の跡を継いだ勝頼に、遠江(静岡県西部)の高天神城などを奪われて9万石を失い、領地は48万石、兵力は1万2千となっています。
しかしながら、徳川と武田の勢力圏の狭間に位置する長篠城の奪還には成功しており、このことが決戦を発生させる要因となりました。
徳川は西の織田と強固な同盟関係にあり、東と北で国境を接する武田軍とのみ、戦う状況にありました。
【長篠で信長とともに戦った徳川家康】
勝頼の勢力
勝頼は武田氏の当主となって以来、盛んに軍事活動を行っており、家康からは高天神城を、信長からは美濃(岐阜県)の明智城を奪取することに成功しました。
この結果、信玄から継承した領地に11万石が加わり、133万石となっています。
兵力は3万3千で、信長の3分の1程度でした。
外交面では、東の北条氏と武田氏はかつて争っていた時期もありましたが、この時点では和解しており、まずは平穏な状態にありました。
また、北の上杉氏は当主の謙信が「勝頼と戦うなど大人げない」と言って信濃への攻撃を控えたため、戦いは発生していません。
こういった情勢であったため、勝頼は西と南の敵である織田・徳川連合を叩くことに集中していました。
決戦の発生は時間の問題だった
こうして見てきた通り、信長は西に強敵がいなかったため、東の武田に戦力を振り向けやすく、勝頼もまた織田・徳川のみを敵として戦える状況でした。
それゆえ、両勢力の間で大規模な決戦が行われるのは、時間の問題だったのだと言えます。
そしてその時が、1575年の5月にやって来ます。
家康の家臣の謀反
しかしながら、この決戦は勝頼にとっては、準備万端で迎えたものではありませんでした。
長篠の戦いが発生したのは、家康の家臣の謀反が発端となっています。
家康は三河の奉行として、大賀彌四郎という男を抜擢していました。
この大賀は、もともとは中間(雑用係)の身分だったのですが、なかなか目端が利いたために家康が取り立てました。
そしてやがては三河の一地方の行政を差配するほどの地位を与えています。
(現代で言えば市長くらいの地位でしょうか)
当時は武力が尊ばれる時代で、武士たちは行政に携わることを嫌い、この方面の人材は不足気味でした。
そのために家康は大賀を抜擢したのですが、大賀は取り立てを受けるとやがて増長し、三河の中心地である岡崎城を奪い、自分がその主になりたいという、だいそれた野心を抱くようになります。
しかし大賀自身には兵力がありませんので、勝頼に連絡し、「三河で一揆を扇動して徳川軍を攪乱し、その隙に城門を開いて迎えるので、岡崎城を家康から奪って欲しい」と要請しました。
そして成功の暁には、自分を岡崎城の城主にしてほしい、と願い出ます。
勝頼としては、岡崎城を手に入れれば、織田・徳川連合を三河で分断することができますので、喜んでこの申し出を受け入れます。
そして1575年5月の初めに、甲斐(山梨県)を出発して三河へと向かいました。
武田軍の総兵力は3万3千でしたが、この時は裏切りに応じて城を接収するのが目的でしたので、勝頼が動員したのは1万5千、全体の半分以下でしかありませんでした。
つまり勝頼は、出陣の際には織田・徳川連合と決戦を行うつもりはなかったのです。
このことが、長篠の戦いの結果に大きな影響を与えます。
長篠城に転進する
大賀の企てた陰謀はやがて露見し、大賀とその仲間たちは捕縛されました。
これは大賀の仲間になっていた者が、果たして主君を裏切っていいものかと思い直し、家康の重臣に大賀の企みを密告したためでした。
浜松城にいた家康は、謀反の知らせを受けて激怒し、大賀をのこぎり引きという、残忍な刑罰によって処刑しています。
大賀の陰謀が失敗したことが伝わると、勝頼は行軍の目的を失ってしまいました。
しかし、1万5千もの兵を動員しておきながら、何の成果も得ずに撤退するわけにもいかず、家康に奪われていた長篠城を取り戻そうと目的を切り替えます。
このようにして、長篠の戦いは流動的な、言わば行き当たりばったりの経緯によって開始されたのでした。
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