長篠の戦いで織田信長が武田勝頼に圧勝できたワケ

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論功行賞

この戦いで最も大きな報償を得たのは、長篠城を守り抜いた奥平貞昌でした。

貞昌は30倍もの敵の圧力に屈せずに戦い抜き、使者を送って的確に情報をもたらしました。

それが信長と家康に大勝利をもたらしたわけですので、称賛を受けるのは当然のことでした。

信長は貞昌に自らの一字を与えて「信昌」と名のる待遇を与えています。

家康は貞昌に名刀を授けてその功績を称賛し、3千貫の領地を加増して重臣の列に加えました。

また、かねてより婚約をしていた娘の亀姫を正式に嫁がせており、相当な厚遇を施しています。

その後も貞昌改め信昌は、家康の娘婿として重用され、最終的には美濃の加納で10万石の大名にまで立身しました。

徳川と武田の狭間で戦い、そこで優れた力量を発揮したことで評価が高まり、地方の一豪族から、大名にまで地位を向上させることができたのです。

信昌は長篠の戦いを契機として、実力によってのし上がった人物なのだと言えるでしょう。

なお、使者の役割を果たした鳥居強右衛門は甘泉寺に懇ろに葬られ、死後もその忠勇を称賛されています。

そして子孫は奥平氏の家中で厚遇を受けました。

勝頼の萎縮

一方、勝頼は長篠の戦い以後も軍事活動を行いましたが、その動きは明らかに鈍くなっています。

徳川軍が駿河に侵入しはじめると、2万の軍勢を率いて攻撃をしかけようとしますが、家康がこれを避けて固く陣地を守ると、積極的に攻撃をしかけるにはいたらず、その出動は空振りに終わっています。

一方、美濃の岩村城が信忠に包囲されていた際には、救援を送るものの自らは美濃に入らず、小部隊に攻撃をしかけさせるにとどまりました。

このため、勝頼は城が陥落するのを空しく見送ることになります。

その後、遠江の要衝である高天神城が包囲された際には、まったく救援を送らず、こちらも陥落するに任せました。

これによって勝頼の名声は地に落ち、各地で不穏な空気が高まっていきます。

このようにして長篠以降の勝頼は、徳川軍や織田軍に対し、積極的に攻めかかる行動を取らなくなりました。

これには長篠の戦いによって武田軍の中核を成す経験豊富な将兵たちが失われ、弱体化していた影響が大きかったでしょう。

また、度重なる出陣によって武田氏の財政が著しく悪化していた、という事情もありました。

そしてそれ以外にも、大敗によって勝頼の気が萎えてしまっていたのも、彼が消極的になってしまった一因だったのではないかと考えられます。

一度の戦いで一万2千もの将兵を失った大敗は勝頼にとってトラウマとなり、果敢に攻めかかる勇気を損なわせたのかもしれません。

勝頼が家康の軍勢に無理にせめかかろうとした際に、老臣に諫められるとおとなしく引き下がった、という逸話があります。

長篠の際に、馬場の諫めを聞かずに大きな失敗をしてしまったため、この時は強気に出ることができなかったのでしょう。

このあたりの勝頼の動きの鈍さが、軍勢を繰り出しても成果をあげることにつながらず、武田氏をさらなる劣勢に追い込んでいくことになります。

織田・徳川軍の勝因

こうして織田・徳川軍は大勝利を得ましたが、それを実現するにはいくつかの要因がありました。

まず、既に触れている通り、信長が3万の軍勢と多くの鉄砲、そして柵を用いて有利な状況を作り出したことが挙げられます。

そして長篠城を守る奥平貞昌と家臣たちが、30倍の敵に囲まれてもひるむことなく果敢に抗戦し、救援がやってくるまで持ちこたえたことも、戦いの帰趨に大きく影響しました。

そして貞昌の家臣が二度に渡って信長・家康と連絡を取るのに成功したことも、連携した作戦行動を取る上で重要な意味を持ちました。

また、別働隊を率いた酒井忠次の活躍、設楽原における徳川本隊の奮戦など、戦いに関わった全員がそれぞれの役割を果たし、勝利に貢献しています。

長篠の戦いは信長の作戦能力のみが強調して語られることが多く、実際にその比重は大きいのですが、徳川軍の働きもめざましく、両軍の連携がうまくいったことで、はじめて得られた大勝利なのだと言えるでしょう。

武田軍の敗因

一方で勝頼は、元々は長篠城を攻め落とすために行動していたのに、信長と家康の軍勢が接近してきたと知るや、戦力が不足しているのに決戦を挑むという過ちを犯しています。

信長や家康と雌雄を決するのであれば、武田軍の全軍である3万以上の兵を繰り出せる状況で行うべきだったでしょう。

その半分の1万5千しか率いておらず、しかも長篠城のおさえにも兵力を割かなければならない状況下で、信長が陣地構築をして待ち構えている場所に進軍したのは、無謀だったとしか言えません。

この時の武田氏はまだ完全な劣勢には追い込まれておらず、外交状況も悪くはなく、一か八かの賭けにでなければならないほどの情勢ではありませんでした。

長篠城を攻め落とせず、織田・徳川の大軍を前に戦わずして撤退すれば、勝頼の名声は低下したでしょうが、それでも決戦を挑んで大敗を喫するよりはよかったですし、挽回できる機会はいずれ得られたことでしょう。

にも関わらず、そのあたりの冷静な判断ができなかったことが、勝頼に取り返しのつかない失敗をもたらしました。

そして作戦面においても、3万5千の敵軍に対し、1万2千と圧倒的に数に劣る自軍を正面から攻撃させるだけで、なんら工夫をしていません。

信長が柵と鉄砲で優位に立とうと作戦を練っていたのに対し、勝頼は無策でしたので、敗れるのは必然だったのだと言えます。

それを予期した老臣たちの意見を退け、しかもその老臣たちに守られたおかげで逃げ延びることができたのは、まったくもって恥だとしか言いようがありません。

まだ若かったことも考える必要もある

と、勝頼にはかなり厳しい評価をしましたが、この時の勝頼はまだ29才だったことを考えると、こういった失敗をするのも無理はないところがあります。

家康もこの2年前には三方ヶ原で信玄を相手に無謀な突撃を行い、大きな損害を負っています。

父の信玄にしても、若い頃には油断から重臣を一度の戦いで2人も失ったことがありました。

そういった意味では、猪突猛進をしたり、気のゆるみから大敗を喫するのは、武将として一人前になるための通過儀礼だと言えるかも知れません。

勝頼の場合は、ほどなくして信長が天下の覇権を確立してしまったため、汚名をそそぐ機会を得られないまま滅亡を迎えました。

その点は、同情に値すると思われます。

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