前田利家 「槍の又左」から加賀百万石の大名にまで出世した勇将の生涯

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前田利家は織田信長に仕え、槍の名手として知られた武辺者でしたが、長じてからは軍の指揮官として活躍するようになります。

やがては能登一国の主となり、豊臣秀吉の信頼を得て90万石の大名にまで出世しています。

晩年には徳川家康とも張り合えるほどの存在となり、豊臣家の柱石にもなりました。

この文章では、一代でそれほどの出世を遂げた前田利家の生涯について書いてみます。

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【前田利家の肖像画】

前田利春の四男として生まれる

利家は1538年に、尾張(愛知県)荒子村を支配していた前田利春の四男として誕生しました。

幼名は犬千代と言います。

1551年に13才で織田信長の小姓となり、側仕えを始めています。

この年はちょうど信長が織田家の家督を継承した時期にあたり、利家は信長の尾張統一戦に参加して武功を立てていくことになります。

当時の尾張は織田氏の一族が権力争いを行っており、多数の勢力によって分裂した状態に置かれていました。

槍の又左衛門

犬千代は元服(成人)する前から戦闘に参加しており、1552年には信長と清洲城主・織田信友が争った「萱津(かやづ)の戦い」で初陣を飾っています。

この時に、早くも敵の首を一つ取る手柄を立てています。

犬千代は身長が6尺(182cm)もあったと言われており、恵まれた体格と戦闘力の持ち主でした。

当時の男性の平均身長は160cmくらいでしたので、相当な大男だったことになります。

犬千代は翌1553年に元服し、前田又左衛門利家と名のりました。

三間半(6m30cm)の長く派手な槍を用い、数多くの戦場で活躍したことから、やがて「槍の又左衛門」という異名で呼ばれることになります。

戦場での活躍と出世

1556年に、信長と弟の信勝が家督争いを演じていた頃、利家は尾張・稲生(いのう)で行われた戦いに参加しています。

この時に右目の下を矢で射られて傷を負いますが、利家は顔に矢が刺さったまま敵中に突撃し、自分を射た相手を討ち取るという戦功を立てています。

三国志の夏侯惇を思わせる勇敢な戦いぶりに、信長は利家を賞賛して味方の士気を高めました。

こうして信長の元で武勇を発揮し、1558年には信長の親衛隊である赤母衣衆に抜擢されて指揮官待遇となるなど、順調に出世を遂げていきます。

そしてこの年に従妹のまつと結婚し、私生活も充実させていきました。

しかしこの翌年には、信長から追放されることになります。

捨阿弥を殺害して追放される

1559年に、利家は信長に同朋衆(どうぼうしゅう)として仕えていた捨阿弥と諍いを起こします。

同朋衆は主君の側近くに仕え、能楽や庭園作りなどの芸術を司る役職です。

捨阿弥は信長の寵愛をよいことに武将たちを侮辱するふるまいが多く、利家にも何かとからんでいたようです。

それだけでなく、利家が大事にしていた刀を盗み出すという所業にまで及んでいました。

ある日、捨阿弥の侮辱が腹にすえかねた利家は、ついに信長の面前で捨阿弥を切り捨ててしまいます。

これに怒った信長によって処刑されそうになりますが、重臣の森可成や柴田勝家がとりなしたことから死刑は免じられ、出仕停止の処分ですまされます。

しかし利家は禄を失って無収入になってしまいました。

利家は若い頃、自分の武勇をたのんだ傲慢なふるまいが多かったようで、人々に避けられていたという記録があります。

そうした理由もあって、浪人となった利家を支援してくれる人は少なく、この時期には生計を立てるのにも苦労をしました。

後に利家は「金があれば他人のことは気にならず世間の評判も怖くないが、金がなくなると世間というのは恐ろしいものだ」と度々語っていたそうです。

また「親しかった人も落ちぶれると離れていってしまうが、そういう時にも以前と変わらず親しくしてくれる人こそ大事にすべきだ」とも語っています。

この事件の影響から、利家はお金の出入りには大変に気を使うようになり、そろばんを用いて自ら前田家の経理を行っていました。

なお、当時はそろばんが日本で使われ始めた時期にあたり、利家は最新の計算器具を使いこなせるほど器用だったことになります。

【次のページに続く▼】