柴田勝家の与力となる
1574年からは柴田勝家の与力となり、越前(福井県)の一向一揆の討伐に参加します。
与力とは、信長の直属でありながら、他の武将の指揮下に入る立場のことを言います。
この時に織田軍は1万2千の一向一揆勢を討ち取り、利家はそのうちの1千人を磔や釜茹でなどにして処刑した、と言われています。
この頃の織田軍は粘り強く抵抗する一向一揆勢を根絶やしにする方針を取っており、利家個人が残虐な行いをしていたわけではありません。
(伊勢長島の一向一揆の討伐の際には、織田軍は2万人を殺害したという記録もあります)
こうして一向一揆を平定したのち、利家は越前の府中10万石を、佐々成政らの同僚たちと共同で統治しています。
大領を統治する前の準備段階として、行政の経験を積ませるための措置だったと思われます。
この頃に信長は配下の武将たちに大名並みの領地を与えるようになっており、利家もその候補者に数えられていたのでしょう。
こうして武辺者から指揮官へ、そして広い領地の支配者へと段階を踏んで出世していきます。
上杉軍との戦いと、加賀・能登の平定
1576年ごろから越後(新潟県)の上杉謙信と信長の関係が悪化し、両者は敵対状態になります。
これにともない、北陸方面では越前に領地を与えられた柴田勝家が上杉軍と対峙するようになり、利家もその戦いに従軍しています。
やがて1577年に上杉謙信が死去すると、謙信の養子たちが後継者争いを起こし、越後は内乱状態になります。
この機をいかして柴田勝家は上杉氏の領地となっていた北加賀(石川県南部)や能登(石川県北部)に攻め込み、その占領に成功しています。
そして1581年になると、利家は信長から能登一国を与えられ、23万石を領有する大名となりました。
こうして一兵卒から身を起こし、ついに5000人もの兵を指揮するほどの身分に昇ったことになります。
なお、この時に家督を奪ってしまった形になった兄の利久と、その養子の慶次に7千石の領地を分け与えています。
本能寺の変と清州会議
こうして利家は信長直属の武将として、柴田勝家らの軍団長に次ぐ地位を手に入れました。
しかし1582年に重大事件が発生し、利家の運命は大きく変わっていくことになります。
この年の6月に京都の本能寺で、信長が家臣の明智光秀に殺害されてしまったのです。
利家はこの時には、柴田勝家と共に上杉氏の領国である越中(富山県)に侵攻中でした。
このため、信長の弔い合戦である山崎の戦いには参加できませんでした。
明智光秀を討伐したのは利家の友人の羽柴秀吉で、これにより秀吉は、一躍天下人を狙える地位にまで上り詰めたことになります。
信長の遺領の分割などを話し合うために尾張の清洲で会議が開かれ、柴田勝家は信長の三男である信孝を織田家の後継者として推薦します。
しかし秀吉は信長の嫡孫である三法師という幼児を当主に推します。
山崎の戦いに勝利して明智光秀を討った秀吉の発言力は大きく、結局は三法師が織田家の後継者になりました。
秀吉は幼児を当主とすることで織田家の立場を弱めて天下を簒奪しようとし、織田家を守ろうとした勝家はこれに反発し、秀吉への対抗意識を強めていきます。
この結果、柴田勝家と羽柴秀吉は激しく対立するようになり、柴田勝家の与力であった利家もまた、秀吉と敵対関係に置かれることになります。
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