武田信玄はどうして三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝できたのか?

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1572年、京への上洛を目指す武田信玄は、遠江(静岡県西部)の三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康と織田信長の連合軍と戦い、これに圧勝しました。

これによって信玄は東海方面での優位を確定させ、家康と信長を強く圧迫し、窮地に陥れています。

しかし信玄はこの戦いの後、間もなく病死してしまい、ついに上洛を果たすことはできませんでした。

危機を脱した信長と家康は反撃に転じ、後にそれぞれ天下を制しています。

この文章では、戦国時代の重要な転機になった三方ヶ原の戦いの顛末と、戦いの前後の状況について書いてみます。

【徳川家康を圧倒した武田信玄の肖像画】

信玄と信長の関係性

信玄と信長、そして家康は、かつてはそれぞれに同盟を締結していた間柄でした。

信玄は1560年代には、既存の領地である甲斐(山梨県)と信濃(長野県)の周辺に勢力を拡大し、それを固めることを戦略目的にしていました。

このため、尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)を拠点にして、畿内への進出をもくろむ信長とは、積極的に戦う必要はありませんでした。

そして信長が信玄と同盟を結ぶことを強く希望して働きかけを行っていたため、友好関係が構築されました。

信長からすれば、強力な軍団を率いる信玄に東側から攻撃を受けると、上洛を阻まれる可能性が高くなるので、信玄との同盟は重要な意味を持っていました。

信長は両家の結びつきを強めるため、養女を信玄の四男・勝頼と結婚させ、縁戚関係も結んでいます。

信玄もひとまず信長と同盟を結ぶことで、さしあたっての攻略目標ではない西側を安全にできることもあって、信長との関係を維持する方針を取っていました。

信玄と家康の関係

家康は1560年に発生した「桶狭間の戦い」を機に、それまで従属していた今川氏から独立し、6年をかけて三河(愛知県東部)一国の統一に成功しています。

この頃に信玄は衰退した今川氏から駿河(静岡県東部)を奪取し、東海地方に進出することを目指すようになっていました。

そのための協力者として家康に目をつけ、外交的な接触を持つようになっています。

そして1567年には、信玄が駿河に、家康が遠江(静岡県西部)に侵入して今川氏の領国をそれぞれに奪ってしまうことを計画し、両者は手を結びます。

計画通りに信玄は駿河に攻め込み、今川氏の当主・氏真(うじざね)を遠江に追い出し、これを占拠します。

家康もまた遠江に攻め込んで、氏真が立てこもった掛川城を包囲しますが、守将の朝比奈泰朝が奮戦したことで、戦いが長引きました。

この状況を見た信玄は、家康との盟約を破って遠江にも軍を送り、このために家康との関係が破綻します。

家康は約束を守らなかった信玄との同盟を、打ち切ることを通告しました。

そして家康は氏真と和睦して掛川城を譲り受け、信玄から駿河を奪還した暁には、氏真に返還することを約束します。

この盟約には今川氏の同盟相手であった関東の北条氏も加わり、東海では武田対徳川・北条・今川連合という構図が形成されました。

その上、越後(新潟県)の上杉謙信もまた家康と協調し、信玄の周囲は敵だらけとなります。

信玄が包囲網を瓦解させる

こうして敵対者が多くなったため、信玄は信長を介して家康との同盟関係の再構築を図ろうとしますが、家康は一度裏切った信玄を許すことはなく、これをはねつけています。

このため、信玄は家康との関係の改善をあきらめ、軍事と外交をもって連合軍への反撃を開始しました。

北条氏に対しては、常陸(茨城県)の佐竹氏らと同盟を結び、東西から北条氏の領地を挟み撃ちにすることで、その動きを封じ込めようとします。

また、かねてからの宿敵であった越後の上杉謙信に対しては、彼の支配下にあった越中(富山県)で反乱を起こさせることで、信玄の領地に攻撃する余裕を持たせないようにしました。

そして1571年になると、信玄と敵対していた北条氏の当主・氏康が病死します。

後を継いだ氏政は方針を転換し、信玄と和睦しました。

こうして信玄は謙信と北条氏の圧迫を取り除き、今度は逆に家康の方が孤立した状態になっていきます。

信玄の外交と調略の手腕はこの時代で随一と言えるもので、まだ年若い家康の対抗できる相手ではありませんでした。

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