家康はどうして出陣したのか?
圧倒的に不利な状況であるにも関わらず、どうして家康は出陣したのでしょうか。
ここまで家康はずっと信玄に負けっぱなしであり、なすすべもなく領地を奪い取られています。
このため、これをどこかで挽回しなくては、と焦りを感じていたのでしょう。
その感情に、信玄の浜松城の無視という行動によって火がつけられたのだと考えられます。
無視される、というのは武将にとって最大の恥辱ですし、家康は若い頃は一本気な性格であったため、信玄からの挑発に乗ってしまいやすい傾向を持っていました。
また、どこかで攻勢に転じて戦況を有利にしなければ、支配を始めたばかりの遠江の諸将が、武田方に寝返ってしまう危険もありました。
事実、この頃には三河や遠江の北部で、国人領主たちが武田への寝返りを開始しています。
信玄はどうして素通りしたのか?
信玄は諜報活動を精密に行う人物であり、このために家康の性格も熟知していて、浜松城を素通りすれば、家康は城を出て追いかけてくるであろうと予測していたと思われます。
城に籠もる1万1千の兵を倒すのには相当な時間を要しますが、野戦であればさして困難ではありません。
病を抱えていたため、あまり多くの時間を浜松城の攻略にかけることはせず、野戦で叩いて家康の勢力を弱体化させ、その間に三河を通って美濃にまで侵入してしまおう、というのが信玄の狙いであったのだと思われます。
こうして、信玄と家康の決戦が行われる情勢が整いました。
三方ヶ原の戦い
信玄は軍勢を三方ヶ原という台地の上にとどめ、坂の下に向かって陣形を整えます。
この時に信玄は魚鱗の陣をしき、敵の中央突破を狙える体勢を作っています。
そして待ち受けるうちに、もくろみ通りに家康の軍勢が姿を表しました。
家康は信玄が三方ヶ原を越え、坂を下り始めたところに追撃をかければ、数の不利を覆して勝利できるのでは、と考えていました。
しかしそれは信玄に読み切られており、戦闘準備をぬかりなく整え、有利な坂の上で待ち構えるおよそ3倍の戦力の敵と、正面から戦うことになってしまったのです。
家康はやむなく、鶴翼の陣という、左右に軍勢を展開する包囲陣形をしき、信玄に立ち向かおうとします。
こうして12月22日の夕方ごろから、信玄と家康の決戦である三方ヶ原の戦いが始まりました。
この時には温暖な東海では珍しく、雪が降っていたと言われています。
武田軍が連合軍を圧倒する
戦いが始まった時には既に夕刻であったため、日没までの2時間ほどの短い戦闘になりました。
しかしこのわずかな時間で、武田軍は徳川・織田連合軍を圧倒しています。
もともとの数の差があった上、坂の上から勢いをつけて攻撃してくる武田軍に、徳川・織田軍はまともにたちうちできず、各部隊が確固に撃破されていきました。
そして戦意の乏しい織田軍は早々に撤退を開始してしまい、これもまた徳川軍の被害の拡大に影響を与えています。
この結果、徳川軍は2時間の戦闘で2千もの死傷者を出し、壊滅状態に陥りました。
本多忠勝らの奮戦によってなんとか総崩れにならないうちに、家康は戦場からの脱出を図りますが、追撃を受けて危機に陥ります。
この時に家臣の夏目吉信が家康の兜を借り受け、家康だと名のって敵中に突入し、引きつける間に家康を逃がそうとします。
他にも鈴木久三郎という武将もまた同じことをして家康の撤退を支援し、こうした家臣たちの犠牲によって、家康はかろうじて浜松城まで逃げ切ることができました。
武田軍の追撃は激しく、家康自身も逃げながら馬上から弓矢を射ち、敵兵を撃退したと言われています。
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