井伊直弼はどうして安政の大獄を断行し、桜田門外の変で討たれたのか?

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井伊直弼(いい なおすけ)は幕末の動乱期に大老の地位につき、幕府を主導した政治家です。

日米修好通商条約の締結によって発生した幕府への反発に対し、「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧を行ってこれを鎮圧しようとしました。

しかしやがて弾圧された水戸藩の浪士たちの襲撃を受け、「桜田門外の変」で討たれてしまっています。

直弼の死によって幕府の権威には大きな傷がつき、その後の討幕運動の活性化へとつながっていきました。

一方で直弼は優れた文化人であり、彦根では慈悲深い名君として知られた存在でもあります。

この文章ではそんな二つの顔を持つ、直弼の生涯ついて書いてみます。

【井伊直弼の肖像画】

彦根藩主の14男として生まれる

直弼は1815年に、彦根藩主・井伊直中(なおなか)の14男として生まれました。

彦根藩は徳川家康の重臣・井伊直政が藩祖で、35万石という譜代大名の中で最大の領地を持つ名門の家柄でした。

しかし直弼は14男であり、しかも側室の子であったため、藩主の地位を継ぐ立場にはなく、300俵の捨扶持をあてがわれ、「部屋住み」として長く雌伏の時を過ごしています。

部屋住みとは、生活に困らない程度の収入を与えられるものの、なんら役目も仕事も任されず、もしも兄が子を成さずに死んでしまった場合に、家を継げるようにするためのスペアとして飼い殺されていた存在のことを言います。

他家に養子の口が見つかればこの境遇から抜け出せるのですが、直弼はその機会にも恵まれず、17才から32才になるまで、ずっと部屋住みのままでした。

文武に優れた才能を見せる

直弼は自身の邸宅に埋木舎(うもれぎのや)という名を付けています。

これは花が咲くことのない埋もれ木に自分を例えてのことで、当時の直弼の鬱屈した心情が反映されています。

直弼はこのような立場に置かれていましたが、個人としては優れた才能を持っており、学問や芸術、武術の修練に励み、いずれも人並み外れた域にまで到達しています。

まず茶道を学んで茶人として高い力量を身につけ、自ら一派を創設しています。
(「一期一会」という言葉は直弼が作ったと言われています。)

また、能楽にも通じ、自らいくつかの演目を作成し、狂言の作者としても活動しています。

それ以外にも禅を学んで心胆を練り、居合術を修めて新しい流派を開くなど、多方面でその才能を開花させています。

そして長野主膳という国学者に師事し、日本の歴史や尊王思想についても学んでいます。

しかしいくら自分を磨こうとも、それを発揮できる舞台が与えられることはなく、才能が優れていた分だけ、かえってより強く屈折した感情が、心のうちに蓄積していったものと思われます。

どうして自分ほどの者が、何もできぬまま世に埋もれ、年老いていかなければならないのかと、悔しく思うこともあったでしょう。

運命が急転し、藩の後継者となる

こうして前半生は何事も成せぬままに過ぎて行きましたが、やがて直弼に運が巡ってくることになります。

1846年、直弼が32才の時に、井伊家の後継者であった直元(兄)が死去し、このために直弼が代わって後継者になります。

まさに部屋住みとしての役目を果たす時が来たのでした。

これによって直弼の運命は急速に開けて行き、1850年には藩主・直亮(こちらも直弼の兄)が死去したため、井伊家の家督をついで15代目の彦根藩主となりました。

この時、直弼は既に36才でしたが、ここから藩主として優れた働きを見せていきます。

【次のページに続く▼】