ペリーはどうして黒船を用いて日本に開国を迫ったのか?

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1853年にアメリカ海軍の提督マシュー・ペリーが浦賀沖に艦隊を率いて姿を表し、日本に開国を迫りました。

そして翌年には日米和親条約が結ばれ、徳川幕府はそれまでの海外渡航や交易を制限する鎖国政策を転換し、西欧の列強諸国と国交を持つことになります。

これがきっかけとなって幕末の動乱が発生し、やがて明治維新という政変が発生するに至りました。

この文章では、どうしてペリーは日本を開国を迫ったのか、について書いてみます。

【ペリーの肖像写真】

捕鯨船の補給と通商が目的だった

この頃の太平洋では捕鯨船が多く運行されており、鯨を追ってアメリカから日本近海にまでやってくる船もいました。

当時はランプの燃料や工業製品の潤滑油として鯨油に高い需要があったため、捕鯨が産業として成立していたのです。

しかし本国から遠く離れて航海をしていると、食料や燃料不足に陥ったり、船が破損したり、船員が病気にかかったりするなど、様々な困難が発生することもありました。

このため、補給を受けられ、いざという時に避難できる日本の港が欲しい、という要望がアメリカの捕鯨業界から出されていました。

しかし日本は鎖国をしていたために寄港できず、これを改めさせて港を開かせよう、というのがアメリカ政府の方針になりました。

また、交易を行って収益をあげたいという意向も持っており、ペリーはフィルモア大統領の指令を受け、日本に開国を促すため艦隊を率いてやって来たのです。

ペリーの来歴

マシュー・ペリーは1794年に、アメリカのロードアイランド州で生まれました。

父も兄もアメリカ海軍の軍人で、その影響を受け、彼もまた海軍の士官候補生となり、順調に出世を遂げていきます。

(兄のオリバー・ペリーは米英戦争で活躍し、歴史の教科書に掲載されるほどの人物で、アメリカでは兄の方が著名です。)

ペリーは米英戦争に参加した後、造船所の所長となって、当時の最新鋭艦である蒸気船の建造に携わります。

そしてアメリカ海軍の最高位である代将に就任し、本国艦隊の司令官になるなどして活躍しました。

日本来航を志す

ペリーは単に軍人として働くだけでなく、歴史に名を残すような仕事をしたいと考え、そのために日本遠征を強く希望するようになります。

このあたりは兄の名声の影響があったのかもしれません。

日本はなかなか開国要請に応じない国として認知されており、補給港や通商の需要があったことから、これを開国させることは外交上の功績になる状況だったのです。

ペリーは1851年までに東洋の情勢の研究を行い、独自に日本遠征を成功させるための計画を練っています。

この時から、自らが構築した蒸気船艦隊の力を見せつけることで日本を威圧し、開国せざるを得ないようにしよう、と考えていました。

当時の日本は長崎のみを外国に対して開いていましたが、ここに寄港を許可されていたのはオランダ船だけであり、彼らが対日貿易を独占していました。

このため、長崎に寄港するとオランダの妨害を受ける恐れがあるとして、これを避けて関東に直接乗り込むことを企図しています。

このあたりの計画を見るに、ペリーは日本の実情を正確に把握していたことがうかがえます。

先任者の解任

ペリーがそのような計画書を海軍長官に提出していた頃、東インド艦隊の司令官・オーリックに遣日特使の役目が与えられ、日本に開国を迫ることになります。

しかしオーリックは艦隊の旗艦・サスケハナ号の艦長とトラブルを起こしたために解任され、このために計画書を出していたペリーが、新たに日本に送られることになりました。

1852年に海軍長官から訓令を受け、日本との交渉についての自由裁量権や、周辺の島々の探索、情報収集などの任務を与えられ、大統領の親書を携えて、艦隊が待つ上海へと向かいました。

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