琉球に拠点を得る
ペリーは上海を出港すると、まず琉球(沖縄)に向かい、蒸気船と帆船の混合船団を沖合に停泊させ、琉球王朝を圧迫しました。
そしてその軍事力を背景にして琉球王朝と交渉を行い、船の寄港の許可と、補給を受けられる取り決めを行っています。
この時にペリーは琉球を武力制圧する許可を得ていましたが、琉球が友好的にふるまったため、平和的に各地への中継点として利用するにとどまりました。
当時の琉球王朝は薩摩藩と清に両属することでその立場を保っていましたので、もしもペリーが強引に制圧を図れば、やっかいな国際問題に発展していたことでしょう。
このあたりのアメリカの他国への強引な押しかけ方は、現代になってもあまり変わりがないように思えます。
日本に向かう
ペリーは小笠原諸島を探索した後、4隻の船を率いて日本へと向かいました。
このうちの2隻が蒸気船で、もうもうと黒い煙をあげながら、1853年の7月に三浦半島の先端にある浦賀沖へと姿を表します。
その様子を見て、日本人は蒸気船を「黒船」と呼びました。
今でも外部からやってくる強力なものを黒船と呼ぶ風習がありますが、この事件がその根源になっています。
当時の日本人にも、オランダの書籍から蒸気船の知識を持っている者はいましたが、実物を見るのみな初めてのことで、大変な注目を集めました。
そんな中、ペリーは艦隊に命じ、上陸に備えて測量を行わせます。
そして幕府に事前に通達した上で、「アメリカの独立記念日を祝する」という名目で空砲を撃ち鳴らしました。
この時に艦隊は73門の大砲を積んでおり、空砲を盛んに撃ち鳴らすことで、幕府を威圧する意図があったものと思われます。
町民たちは、初めは砲撃を受けたのかと思って慌てましたが、やがて空砲であるとわかると安心し、これを花火の催し物のように楽しんだと言われています。
また、小舟で蒸気船に寄せて見物する者たちが表れており、乗船しようとした者までいたようです。
当時の日本人は未知のものをむやみに恐れることはなく、むしろ好奇心が強い人が多かったようです。
日本の知識
このアメリカの来航については、事前にオランダから知らせが送られていたこともあり、それほど意外な事態でもなかったようです。
ペリー以前にも、ロシアが通商と国境の確定を求めて使者を送って来ていましたし、隣国の清がアヘン戦争などでイギリスに荒らされていることもあり、いずれは開国をしなければならなくなるのでは、と考える人々も登場していました。
この頃の日本は鎖国していたとは言え、情報収集を積極的に行っており、世界情勢について全くの無知ではありませんでした。
とは言え、いきなり江戸の近くに蒸気船で乗り込んで来られたことについては、度肝を抜かれたと思われます。
幕府の対応
幕府は浦賀奉行所の与力を送ってペリーの意図を確認し、大統領の親書を渡すことが目的であることを把握します。
ペリーは身分の低い役人に親書を渡すことはできないとして、責任を取れる高位の役人をよこすように、と要求しました。
これまでの幕府は、海外からの使者の対応に身分の低い役人を当たらせ、のらりくらりと返答を引き伸ばし、交渉をうやむやにするのを常套手段にしていたのですが、ペリーはそのことを知っていたようです。
ペリーは4日待って欲しいという幕府の要望に対し、3日なら待とう、と返答します。
そして、「もしも身分の高い役人をよこさないのであれば、江戸に上陸して、直接将軍に親書を手渡しする」と言って幕府を脅しました。
その後で短艇を浦賀湾に侵入させ、測量を行っています。
この護衛に蒸気船のミシシッピ号を付属させ、幕府が文句を言えないようにしました。
鎖国政策によってまともに海軍を形成しておらず、沿岸に大砲も備えていなかった幕府には、ペリーに対抗する手段が何もなく、これを黙認するしかありませんでした。
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