ペリーはどうして黒船を用いて日本に開国を迫ったのか?

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ペリーの事情

こうしてペリーは強気一辺倒で幕府に接しましたが、これにはペリーの側にも弱みがあったことが影響しています。

ペリーがアジアで活動するうちに、アメリカでは政権交代が起こり、新たに穏健派のピースが大統領に就任しました。

ピースはペリーが日本に向かう際に使用できる軍艦の数を制限し、戦闘行為を行わないように命令しています。

このため、4隻しか軍艦を使用できなくなったペリーは、果たしてこれだけの数で幕府を圧迫しきれるだろうかと、内心不安を感じており、このために過剰に威圧的な態度に出ることになったのです。

ペリーの側も盤石な状況ではなかったのですが、それが日本の鎖国を打ち破り、国を開かせることにつながっていきました。

国書を受け取る

武装した蒸気船を追い払う軍事力は幕府にはなく、このため老中首座という、幕府の政務を代表する立場にあった阿部正弘は、国書を受け取るくらいのことは承認せざるを得ないと判断し、ペリーに久里浜への上陸を許可しました。

この時に将軍の徳川家慶は病にかかっており、重要な案件の判断ができる状態になく、このために阿部正弘が決定を下しました。

ペリーは久里浜で浦賀奉行の戸田氏栄らと会見し、大統領からの親書や、自身の信任状などを手渡しました。

幕府は将軍の病気を理由にして、1年は返答できないと述べ、時間の猶予を要求しました。

ペリーはひとまずはここまでで十分と判断し、これを了承して会見を終えています。

しかしすぐには撤収せず、浦賀から北上して江戸湾に入り、江戸の街から見える場所にまで蒸気船を進ませ、その気になれば江戸城にも向かえるのだと意思表示をしました。

ペリーからすれば、幕府に対して1年後の返答を色良いものにするようにと威圧したのでしょうが、こうした強圧的なふるまいが、やがて幕府の存続をも脅かすことにつながっていきます。

幕府の権威の失墜

こうしてペリーが最後まで威圧的にふるまったことで、幕府の権威には大きな傷がつきました。

これまでの幕府は、国内では決して逆らうことのできない最強の存在として認識されていましたが、その幕府が手も足も出せない存在が海外からやって来て、誰の目にもわかるように屈服させられたからです。

これによって幕府の存在が相対化され、必ずしも最強ではないのか、とそれまでよりは軽く見られるようになっていきます。

また、阿部正弘が開国要求への対処をめぐり、朝廷や公家、大名のみならず、身分を問わずに意見を述べてよいという開明的な方針を取ったことも、この傾向に拍車をかけました。

この時に各地の大名や学者、果ては遊郭の経営者を含めて700通以上の意見書が寄せられ、誰でも政治に参加してよいのだ、という空気が醸成されるようになります。

このことも、幕府の存在は日本内部の勢力の一つでしかない、という認識を人々に抱かせるようになります。

このために阿部正弘が意見を募集したことは失策だったとも評価されていますが、日本全体のことを考えると、広い階層に政治意識を覚醒させたのは、よい選択だったとも言えます。

軍事力の増強

阿部正弘はペリーが再来航した際に戦闘になることを警戒し、江川英龍に命じて品川沖に台場を建造し、大砲を設置するなどして備えました。

これが現代のお台場になっています。

こうして無防備だった江戸湾の防御を固めつつ、これまで鎖国政策と大名たちの軍事力の抑制のために禁止していた、大型船の建造を許可しました。

そして洋式帆船の建造を幕府自らが率先して開始し、浦賀造船所で起工しています。

さらに、ペリーが去った一週間後には早くもオランダに艦船の発注を行っており、迅速に対応が進んでいきました。

それほどに、ペリーの来航は幕府に強く国防上の危機意識を呼び覚ましたようです。

大型船の建造が許可されたことで、後に薩摩藩や佐賀藩などの、いわゆる雄藩は西洋式の海軍を創設し、幕府の存在を脅かしていくようになります。

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