佐久間象山(しょうざん)は幕末に活躍した洋学者であり、思想家です。
ペリーの来航以前から洋式軍艦を備え、海岸に大砲を設置することを献言するなど、時代の先を読む能力を備えていました。
やがて江戸に塾を開き、吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬らを門弟にし、数多くの幕末の俊英たちの教育にも携わっています。
しかし当人は自信過剰で人を見下す性格で、このために死後にその働きを顕彰してくれる人が少なく、知名度では弟子たちに劣ることになりました。
この文章では、そんな象山の生涯について書いてみようと思います。
【佐久間象山の肖像】
松代藩の名門の家に生まれる
象山は1811年に信濃(長野県)の松代藩士の子として生まれました。
父は佐久間一学(いちがく)といい、側右筆(そくゆうひつ)の組頭という役目を務めています。
右筆とは公文書の作成を担当する役目で、つまりは事務官僚です。
一学は儒学や算術に秀で、剣術も松代藩で随一の技量を備えており、いわゆる文武両道の優れた人物でした。
象山はこの父の才能を引き継ぎ、幕末において名を成すことになります。
佐久間家は松代藩では100石取りの名門の家柄でしたが、当主が子がないままに死去しており、お家断絶の危機に瀕していたことがありました。
この時に才能に秀でた一学が特に選ばれ、佐久間家の養子になって家督を継承しています。
しかし家禄は元の5両5人扶持(15石程度)のままで据え置かれており、経済的には恵まれなかったようです。
この時代の武士は生まれた環境に強く束縛されており、優れた能力を備えていたとしても、それだけで出世ができることはめったにありませんでした。
腕白な少年として育つ
象山は父と同じく、生まれついて優れた体格と運動神経を備えていましたが、それをケンカに用いており、腕白な少年として育っていきました。
ある時、家老の息子とケンカをして騒動を起こし、ついに父・一学は象山に3年の間は謹慎をするようにと命じました。
そして礼儀や道徳などの人の道、すなわち儒学を学ぶようにと教え諭します。
象山はこれに従い、藩の儒学者たちのもとに通って詩文や経書といった儒教の経典に学び、その跳ねっ返りの性格を、いくらかは矯正していったようです。
元々、3才にして文字が読めたと言われるほどに頭脳も優れていたので、すぐに儒教の教えを習得し、周囲からもその学才を認められるようになっていきました。
(6才の時にすでにそれらの書物の内容を理解し、近所の子ども達に講義していた、という逸話もありますが、これはその天才性を装飾するための伝説の類だとも考えられます。)
また、算術の習得にも熱心に励んでおり、これが後に洋学を学ぶ際に大いに役立ったと思われます。
藩主・真田幸貫に才能を見出される
象山が仕えた松代藩の藩祖は真田信之といい、有名な信繁(幸村)の兄です。
時代がすぎるうちに信之の血統は絶えてしまいますが、井伊氏などから養子を取ることで真田氏は存続していきました。
この頃の藩主は幸貫(ゆきつら)といい、8代将軍・徳川吉宗や松平定信の血を引いており、彼もまた養子として真田氏の名跡をついでいます。
幸貫は開明的な優れた人物で、後に幕府の最高位の役職である老中にも就任しています。
この幸貫がある日、佐久間家を訪問し、14才になった象山と体面しました。
そしてその才能をひと目で見抜き、強く引き立てるようになっていきます。
この幸貫の存在がなければ、象山が世に出て洋学者として名を成すこともなかったでしょう。
象山が17才で佐久間家の家督を継ぐと、幸貫は自身の後継者である幸良(ゆきよし)の教育係に抜擢しました。
しかし象山は藩主に対しても従順ではなく、「老いた父に十分に孝行ができなくなるから」というもっともらしい理由をつけ、間もなくこれを辞任しています。
【次のページに続く▼】