佐久間象山 幕末に洋学の第一人者として活躍した、天才学者の生涯について

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吉田松陰と小林虎三郎を高く評価する

象山は自分の弟子の中で、吉田松陰と小林虎三郎の2人を特に高く評価していました。

松蔭はその性格の豪胆なところを褒め、虎三郎は教育者としての才能を褒め、自分の子どもを預けるならば虎三郎だ、と評価していました。

虎三郎は後に新潟の長岡市の教育事業に献身し、米百俵の逸話で知られています。

松蔭は象山が褒め称えた通りの豪胆さをもって、幕末の動乱の初期に足跡を残すことになりますが、それが象山の運命にも大きな影響を与えることになります。

ペリーの来航

象山が江戸で洋学の研究と弟子たちの教育にあたるうち、アメリカ海軍の提督・ペリーが浦賀沖に蒸気船を率いて来航し、大きな騒ぎとなります。

この時に象山は藩の軍議役に任じられ、浦賀に出向いてペリー艦隊の様子を視察しました。

後にペリーが上陸した際に行き会っており、ペリーは象山の眼光の鋭さに、思わず会釈してしまった、という逸話があります。

真偽は不明ですが、確かに写真を見ても象山の眼にはかなりの力強さがあり、ペリーが思わず反応をしても無理はないように思えます。

【佐久間象山の顔写真】

この時に象山は「急務十条」という報告書を老中首座の阿部正弘に奏上しており、西洋事情の調査と国力を充実させるための政策を実施するようにと提言しました。

象山の身分は松代藩士でしかなく、幕府からみれば陪臣であったにも関わらず、権力の中枢にあった阿部正弘にまで提言書が提出されているわけで、この頃には知識人としてかなりの名声を得ていたことがうかがえます。

この時期の象山は、ガラスの製造や大砲の鋳造だけでなく、オランダ語の辞典の出版や、牛痘種の導入などにも取り組んでおり、多岐にわたって西洋文明を受容するための活動を展開していました。

吉田松陰に連座して入獄する

しかしながら象山のこうした活動は、その胆力を賞賛した吉田松陰の行動によって頓挫することになります。

松蔭はペリーが幕府と開国条約を結ぶために再来航した際に、小船で蒸気船に漕ぎ寄せ、自分をアメリカに連れて行ってほしいと要請しました。

ペリーは松蔭の勇気に感銘を受けたものの、国交を開いたばかりで微妙な時期であったため、これを断っています。

やむなく松蔭は下田奉行所に出頭して自首し、獄につながれることになります。

この頃はまだ、私的に海外渡航を図ることは犯罪行為だったのです。

松蔭の行動は象山の主張する海外情勢の調査のためだったのですが、いささか勇み足であったと言えるでしょう。

この時に象山は松蔭の渡航の相談に乗ったとも、促したとも言われており、このために連座して罪に問われ、伝馬町の牢屋敷に入れられることになってしまいました。

そしてその後は松代での蟄居を命じられ、しばらくは表舞台から姿を消すことになります。

蟄居時代

象山は罪人になってしまったため、1855年〜1862年まで、目立った活動は行なえませんでした。

松代に逼塞しているうちに天下の情勢は激動し、大老となった井伊直弼(なおすけ)が安政の大獄によって攘夷派の人物をことごとく処罰し、吉田松陰も処刑されてしまいました。

しかしその後で井伊直弼も桜田門外の変で暗殺されてしまい、幕府の権威が大きく傷つくことになります。

象山は自分が必要とされるであろう情勢において、何もできなかったのは歯がゆかったでしょうが、どうにもしようがありません。

しかし一方で、松代にいる象山の元を志士たちが訪れるようになり、松蔭の愛弟子である久坂玄瑞と交流を持ち、彼の思想に大きな影響を及ぼしています。

1862年にようやく蟄居が解けると、長州藩や土佐藩から招かれ、時勢に関する意見を述べるなどして活動を再開しています。

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