久坂玄瑞 吉田松陰の後を継ぎ、尊王攘夷に奔走した志士の生涯

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久坂玄瑞(くさか げんずい)は吉田松陰の弟子となり、幕末に尊王攘夷派を主導した人物です。

松陰の死後にその志と思想を引き継ぎ、長州藩の藩論を塗り替え、同志たちとともに主導権を握りました。

以後は京都で活動し、攘夷派の公卿たちと手を結んで、朝廷を中心とした政体への変革と、幕府の打倒を目指して政治工作に奔走します。

しかし公武合体派の反撃を受けて朝廷から追われ、復権を目指した戦いの中で、志半ばにしてその生涯を閉じることになりました。

この文章では、そんな玄瑞の生涯について書いてみます。

【久坂玄瑞の肖像】

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長州藩の医者の子として生まれる

玄瑞は1840年に、長州藩医・久坂良迪(りょうてき)の三男として誕生しました。

幼名は秀三郎といいます。

両親が年を取ってから生まれた子だったので、大変にかわいがられて育てられた、と言われています。

玄瑞は私塾に通って儒学の素養を身につけた後、藩の医学所である好生館に入学し、医者になるための勉強を開始しました。

兄もまた優れた人物だった

玄瑞の兄は久坂玄機(げんき)といい、長州藩医きっての俊才と評された人物でした。

そして玄瑞とともに「坂家の連璧(れんぺき)」とも称されています。

璧(へき)は貴重な宝物、という意味で、兄弟そろって優れた人材であったことから、この異名がつきました。

兄・玄機は若い頃に大阪の適塾で蘭学を学び、その塾頭となるほどに優れた学才を備えています。

そして藩命によって長州に戻ってからは、海外事情や西洋の軍事学に通じていたことを買われ、医者という身分を超えて藩の海防政策に携わったり、種痘を実施するなどして、多方面に活躍しています。

こうした兄の存在が玄瑞の思想に影響を及ぼし、玄瑞が医師の子でありながら、幕末の動乱の渦中に飛び込んでいく上で、大きな支えになったと考えられます。

家族が次々と死去し、久坂家の当主となる

1853年、玄瑞が14才になると、家族に不幸が相次ぎます。

この年に母が死去し、翌年には兄・玄機も病死してしまいます。

さらにその数日後には父も亡くなり、次兄は早世していたため、玄瑞は家族をすべて失ってしまいました。

こうした事情のため、15才で久坂家の家督を継ぐことになり、名を秀三郎から玄瑞に改めています。

長州藩には、成績が優秀な者を無償で寄宿舎に住まわせる、という奨学制度があったため、玄瑞はこれを利用して好生館の寮生となり、生活を成り立たせつつ、学問に励みました。

九州に遊学し、吉田松陰の弟子になることを勧められる

玄瑞は1856年、17才の時に九州に遊学しています。

各地の著名な文人を訪ねつつ、詩作にふけるという旅でしたが、その途中で熊本藩士の宮部鼎蔵(ていぞう)と出会います。

宮部鼎蔵は山鹿流軍学という伝統的な軍事学を学んでおり、同じ学問を修得していた吉田松陰の親友でした。

尊王攘夷を掲げて行動する志士でもあり、玄瑞もまた志士として活動するだけの力量があると見込まれます。

そして玄瑞は、宮部から松陰の元で学ぶことを勧められました。

また、亡き兄の友人である月性(げっしょう)上人からも松陰の弟子になることを勧められており、このために帰国すると松陰に手紙を送り、攘夷(外国勢力の排除)についての自分の意見を伝え、議論をすることになります。

松陰との論争の始まり

この時の議論は、2年前に強引な手段で日本と国交を開いた、アメリカへの対応がその主題でした。

玄瑞は初めに「元寇の時のように外国からの使者を斬ってしまい、アメリカの来襲を招き寄せ、武士の緩んだ綱紀を引き締めるべきだ」と過激な主張をします。

これは鎌倉時代に、日本に臣従を要求してきた元の使者を、北条時宗が切り捨てさせたことを引き合いに出し、アメリカの使者も斬ってしまうべきだという内容でした。

この時代には、武士たちは長く続いた泰平に慣れ、その大半はすっかりと堕落していましたので、外国勢力の襲撃を招き寄せ、目を覚まさせるべきだと玄瑞は考えていたのです。

これに対して松陰は「あなたは思慮が浅く、議論が浮ついている。アメリカの使者を斬るにも既に時期を逸しており、昔の死んだような事例を持ち出して、現在の全く異なる問題に対処できると考えるのは誤りだ。実践する方法を考えずに、浮ついた言説だけを書き連ねても意味がない」と冷徹に、玄瑞の意見を酷評しました。

【次のページに続く▼】